ホームページ     略年表            漢文版     英語版  

第八章   虐殺と粛清の二・二人事件

      台湾省行政長官公署と台湾警備総司令部の設置

      ポツダム宣言の受諾により、日本は連合国軍の占領するところとなった。一九四五年九月二日、東京湾に浮かぶ米国の戦艦ミズーリ号において、日本国全権が連合国に対 する降伏文書に署名した。これを受けて同日、連合国軍総司令部は指令第一号を発表、その一般命令第一号IのA において、中国(満州を除く)と台湾およびフランス領北ベトナムの日本軍に、蒋介石(1887-1975) 大元帥への投降を命じている。この命令にもとづいて、台湾と北ベトナムは蒋介石麾下の 中国軍に占領されることになった。この頃、中国ではすでに国民党と共産党の内戦が始まっており、国民党政権の蒋介石麾下の中国軍は、実質的には国民党軍であった。

       ところがこの命令第一号を待たずに、その前日の九月一日、中国・四川省の重慶に逼塞していた蒋介石の国民党政権は、「台湾省行政長官公署組織大綱」を布告、「台湾省行政長官公署」(以下「長官公署」とする)と「台湾警備総司令部」(以下「警備総司令部」とする)を設立し、陸軍大将の陳儀を台湾省行政長官兼台湾警備総司令官に、葛敬恩を長官公署の秘書長に任命した。台湾の領有権の変更に関する国際条約もないまま、素早く台湾を中国の「台湾省」としたのは、カイロ宣言に依拠してのことであった。

          そして九月五日、陳儀は重慶に臨時弁公室を設立、みずから主任に就任し、さらに九月二十八日に長官公署と警備総司令部の合同機関である「前進指揮所」を設け、台湾占領の準備を開始した。これと並行して、中国に渡り国民党政権に加わっていた台湾人の一部が台湾に戻り、国民党政権の「勇敢な抗日」を宣伝し、台湾の「祖国復帰」の雰囲気づくりに奔走した。また、国民党政権の先遣隊ともいうべき、特務機関に属する治安情報人員もひそかに派遣され、権力移行のための地ならし工作にあたった。長官公署秘書長以下、台湾を日本政府から接収するための先遣人員八〇余名は、十月五日に米軍機で台北に降り立ち、ただちに前進指揮所を台北に移した。

        つづいて十月十七日、国民党軍二個師団一万二〇〇〇余と官吏二〇〇余名が、米軍戦の護衛のもと三〇余隻の米国艦船に分乗して基隆港に上陸し、即日、台北に進軍した。国民党政権は戦勝国とはいえ、米軍の全面的な支援を得ての台湾占領であった。このときの国民党軍の低い士気とわびしい身なり、劣悪な装備を目のあたりにした多くの台湾人は、日本軍とのあまりの違いに驚愕し、日本が中国に敗れたとは、とても信じられなかった。そして「日本はアメリカには負けたが、中国に負けてはいない」という噂の正しかったことを確信したのである。国民党軍への驚愕と失望は、「祖国復帰」に一抹の不安を抱かせ、期待と喜びに微かな影を落とすものであった。

    祖国復帰と敵産の接収

       陳儀行政長官は一九四五年十月二十四日に、長官公署と警備総司令部の幹部を率いて、上海から米軍機で台北入りした。翌二十五日午前一〇時、台北公会堂(現在の台北中山堂)で「中国戦区台湾地区降伏式」が行なわれた。そして式典の終了直後に、陳儀行政長官がラジオ放送を通じて、「今日より台湾は正式に再び中国の領土になり、すべての土地と住民は中華民国国民政府(国民党政権)の主権下におかれる」(要旨)との声明を発表した。この声明は台湾の領有権の変更のみならず、台湾人の意思にかかわらず一方的に、その国籍を日本から中華民国に変更するものであった。この点、日清戦争後の台湾割譲にともない、台湾住民には二年間の猶予期間が与えられ、国籍の選択が認められたのとは、著しい違いであった。降伏式につづき同日午後に、「祖国復帰」を祝う「慶祝台湾光復大会」が催された。こうして台湾は「祖国」に復帰し、この日から台湾人の国籍は中華民国となり、「本省人」と称され、中国から新たに渡ってきた中国人を「外省人」と称して区別した。そしてこれ以後、十月二十五日は「光復節」とされ、国定の祝日になっている。

       日本の降伏を受けて、ただちに総督府に台湾省行政長官公署が、台湾軍司令部に台湾警備総司令部が発足し、敵産(日本企業)の接収も始まった。長官公署は元台湾総督府の直轄官署を、警備総司令部は元日本軍の施設を接収、各県にもそれぞれ接収委員会が設けられ、従来の地方官署を接収した。さらに日本の公営企業とその資産は「台湾省接管委員会」が、民間企業と私有財産は「台湾省日産処理委員会」が接収した。一九四七年二月末日までに、土地を除き接収された財産は、公的機関五九三件、二九億三八五〇万円、②民営企業一二九五件、七一億六三六〇万円、民間の私有財産四万八九六八件、八億八八八〇万円で合計五万八五六件、一〇九億九〇九〇万円であった。当時の貨幣価値からすれば膨大な資産である。国民党政権はこれら元台湾総督府を頂点とする統治組織を基礎に、いとも簡単に台湾における統治機構を構築し、台湾経済を全面的に掌握した。また、接収の過程で官僚の私腹も肥やされたのである。

        国民党政権の官僚の貪官汚吏ぶりは、枚挙にいとまがない。接収に際しては必ずといってよいほど官僚の着服が横行し、「降伏財」または「光復財」を築いている。日本人が律気に作成した財産目録にもとづき外省人官吏が接収するが、その目録は改竄され、接収財産の一部は着服されて姿を消した。笑い話のようではあるが、財産目録にある「金槌」を金製のハンマーと思い込んだ接収官吏が、いの一番に「金槌」の提出を求めたという実話もある。日本の教育が浸透し、法治国家の市民に成長していた台湾人の目には、「祖国」の官吏の公私混同と腐敗ぶりは、これまた驚嘆すべきものに映った。戦時体制下の「滅私奉公」が、 一転して「滅公奉私」の世となり、台湾人の胸中には「祖国」と国民党政権への失望と軽蔑が芽生え、日を追って膨らんで行った。

        接収された日本企業のその後

         接収された主な公営および民営企業はその後、国民党政権のもとで国営、または台湾省営の公営企業となっている。

        台湾銀行、台湾貯蓄銀行、三和銀行は合併されて台湾銀行に、日本勧業銀行は台湾土地銀行に、台湾商工銀行は台湾第一商業銀行に、華南銀行は華南商業銀行に、彰化銀行は彰化商業銀行に、台湾産業金庫は台湾省合作金庫になり、いずれも省営である。生命保険会社の千代田、第一、帝国、日本、明治、野村、安田、住友、三井、第百、日産などは合併されて、省営の台湾人寿保険公司になった。

       海軍第六燃料廠、日本石油、帝国石油、台拓化学工業、台湾天然瓦斯研究所などは合併されて中国石油公司になり、日本アルミニウムは台湾金呂業公司に、台湾電力は台湾電力公司に、大日本製糖、台湾製糖、明治製糖、塩水港製糖などは合併されて台湾糖業公司に、台湾電化、台湾肥料、台湾有機合成などは合併されて台湾肥料公司に、南日本化学工業、鐘淵曹達、旭電化工業などは合併されて台湾研業公司に、台湾製塩、南日本塩業、台湾塩業などは合併されて中国塩業公司に、台湾船渠基隆造船所は中国造船公司に、台湾鉄工所、東光興業高雄工場、台湾船渠高雄工場などは合併されて台湾機械公司になった。いずれも国営である。

      浅野セメント、台湾化成工業、南方セメント工業などは、合併されて台湾水泥公司に、台湾パルプエ業、塩水港パルプ工業、東亜製紙工業、台湾製紙などは合併されて台湾紙業公司になり、農林関係の製茶八社、パイナップル関連六社、水産関連九社、畜産関連三二社が合併されて台湾農林公司になった。さらに砿業関連二四社、鋼鉄機械関連三一社、紡績関連七社、ガラス関連八社、油脂関連九社、化学製品関連一二社、印刷関連一四社、窯業関連三六社、電気器具関連五社、土木建築関連一六社などは合併されて、台湾工砿公司になった。これらはすべて省営である。このほかにも県や市が引き継いだ企業もあるが、ここでは割愛する。

       国民党政権はいわば「棚ボタ式」の台湾占領により、領土と莫大な財産を掌中にした。これは数年後の政権の台湾移転、台湾人のいう「祖国の台湾逃亡」を助けて余りある、国民党政権にとっての恩寵であった。

       土皇帝と統治機構

       国民党政権は日本の統治機構や財産を継承したばかりでなく、台湾を占領してしばらくの間は統治制度も踏襲した。 [台湾省行政長官公署組織大綱」によれば、行政長官は職権の範囲内において署令を発し、台湾に施行する法規を制定する権限を付与されている。また、警備総司令官を兼任していることから、軍令と軍政を含む軍事権も有した。これは日本統治時代の武官総督に匹敵し、立法、行政、司法、軍事の諸権限を一身に集める、まさに新たな「土皇帝」であった。   

     国民党政権は日本統治下の地方行政区画もほぼ踏襲したが、従来の五州三庁を八県に、庁の下の一一市を九省轄市に、郡を区に、街を鎮に、荘を郷に改め、台湾省のもとに配した。県と省轄市には県政府と市政府を、区には区署、県轄市、鎮、郷にはそれぞれ市公所、鎮公所、郷公所を設けた。過去の総督府評議会は台湾省参議会に、州および市の協議会は県や市の参議会に改めたが、従来同様に諮問機関であり議決機関ではない。

       日本統治時代末期の一九四四年に廃止された保甲制度は復活され、以前にもまして厳しいものとなった。台湾総督府の保甲制度は一〇戸を一甲、 一〇甲を一保とする「一〇戸連座」制であったが、復活後は「五人連座」制の隣里制度になった。加えて、新たに官庁においても、公務員の「五人連座」制がとられることになった。市民に対する締め付けが、日本統治時代にまして厳しくなっている。

       国民党は「レーニン式の一党独裁」に近い政党であり、「以党治国」(党が国を治める)をめざした。台湾の占領にともない、国民党の人員が派遣され、党の組織整備にあたった。台湾省には省党部がおかれ、地方には県党部、市党部、鎮と郷には区党部が設けられている。それぞれの党部には「党工」と称される専従の工作員が配置され、各級の行政機関を監督し、指揮した。

        国民党政権は特務機関と称される治安情報組織をその統治の支柱としており、日本の敗戦直後に特務人員を台湾に潜入させ、いたるところにその組織網を広げて行った。その後、警備総司令部の特務室を頂点に、長官公署から末端の地方行政機関はもとより、公共団体や学校、公営企業にいたるまで、特務の監視網が張りめぐらされた。

      このように国民党政権は台湾に移転する前から早々と、「党(国民党)」「政(行政)」「軍(軍隊)」「特(特務機関)」からなる独特の統治体制を整えていたのである。これだけ錯綜した統治組織の維持には、当然に人員も膨らみ、日本統治末期の台湾総督府本庁の人員は約一万八三〇〇名であったのに対し、長官公署は約四万三〇〇〇名であった。これは一例に過ぎず、他は推して知るべしであろう。

        台湾総督府はじめ行政機関や日本企業は台湾人を差別し、ほとんど上級職に登用することはなかったが、下級職には優秀な台湾人がたくさんいた。これら能力ある台湾人は、「祖国」に復帰したからには、活躍の場を得られると期待していたが、果たせなかった。国民党政権は重要なポストや管理職のほとんどを外省人で独占した。しかも学識や経験、能力に劣る者が多かったため、台湾人の不満を募らせた。

        経済破綻と社会混乱

       国民党政権は台湾を占領し接収するとともに、台湾と日本の関係を断った。これにより台湾経済も中国経済の一環となり、過去の日本従属から中国従属へと移行することになった。当時の中国経済は、対日抗戦につづいての国共内戦で、すでに疲弊をきわめ崩壊寸前の状況にあり、当然、台湾にも波及した。それまで日本に移出していた米や砂糖は中国向けとなり、中国からは日用雑貨や工業製品が移入された。経済崩壊寸前の中国は、物資の欠乏とインフレの昂進により、物価の上昇は天井知らずの状況にあり、これまた台湾に移出する製品の価格に連動し、否応なしに台湾の物価を押し上げている。

      国民党政権は台湾占領後、従来の台湾円を一対一の比率で台湾元に切り換え、台湾の通貨とした。そして、この台湾元と中国の通貨である法幣(後に金元券に変わる)の交換レートを固定相場制とし、台湾元を不当に低く抑えたため、移入商品の価格はさらに押し上げられている。この頃の中国の悪性インフレは、交易と通貨の交換レートを介して台湾にも波及し、台湾経済を混乱させ、市民生活を脅かした。占領して六ヵ月足らずの一九四六年早々には、台湾経済は破局的な状況に陥っていたのである。固定相場制は後に変動制になったが、それでも台湾元の価値は不当に評価されたままであった。

        台湾は「穀倉」といわれてきたように、終戦当時でも一六万余の日本軍の、二年間の食糧備蓄をまかなって余りあった。それが一九四五年十一月末には、全台湾規模で深刻な米不足の状況となっていた。これはほかでもない、台湾の米を大量に中国に移出したからで、米不足は米の価格を吊り上げた。終戦時の台北の米の価格は、一斤(六〇〇グラム)二〇銭であったが、十一月には六〇倍の一二元にも跳ね上がっている。米はその一例に過ぎず、台湾のあらゆる産物が不当な低価格で、中国に移出または密輸されたため、早くも一九四六年早々には、著しい物資の欠乏とインフレの昂進の二重苦に台湾人は直面していた。しかし、国民党政権は紙幣の増刷で対処、台湾銀行の印刷機は増刷に増刷を重ねた。一九四五年九月の発行額は一九億三〇〇〇万元であったが、翌年五月には二九億四三〇〇万元、同年末には五三億三〇〇〇万元、一九四七年末には一七一倍三三〇〇万元、一九四八年末には一四二〇億四〇〇〇万元となっている。ついには紙幣の印刷が間に合わなくなり、各銀行支店が「本票」(銀行の自己宛小切手に相当)を乱発するにいたり、天文学的な数字の膨大な紙幣と本票が氾濫し、ますます経済状況を悪化させるばかりであった。

       経済状況の悪化に加えて、失業者の急増による社会的な混乱も深刻化しつつあった。日本の敗戦で大量の留学生が日本から戻り、前線からも軍人や軍属、軍夫が帰還したが、これらの人員を受け容れる職場はなかった。そればかりか戦時中の爆撃で操業不能となった工場もあり、さらには接収しても順調に稼働しない工場もあり、わけても国民党政権の意図的な台湾人排除により、就労機会は極端に減少し、三〇万人以上もの台湾人失業者が巷に溢れた。治安も急速に悪化し、日本統治時代の「法治国家」から一転して「無法地帯」になり、市民の足であるパスや汽車、貨物列車にいたるまで、警護員が同乗して警備にあたるほどであった。

        長官公署に批判の声

       国民党軍兵士の強奪や狼藉、官吏の腐敗と貪欲ぶりには目に余るものがあった。国民党軍の占領後まもない頃から、台湾人は「同胞」という新たな支配者に失望し始め、不満を抱くとともに批判するようになった。もともと漢族系台湾人は、渡来する中国人を「唐山人」と呼んでおり、中国を意味する「唐山」には何らの悪意もなく、むしろ親しみが込められていた。ところがやがて「唐山人」は「阿山」となり、田舎者を嘲ける軽蔑を込めた呼称に変わる。それだけでなく「犬(日本人)去って豚(中国人)来たる」とまで嘆くようになった。要するに、日本人はうるさく吠えても番犬として役立つが、中国人は貪欲で汚いというのであるが、そこには台湾人は日本人や中国人とは違った存在であるという、潜在的な意識があることに注目したい。

        知識人の間からは、長官公署に対するさまざまな要望が提起された。しかし、いずれも言を左右にしてうやむやに処理され、やむなく自衛措置をとることで、みずからの権利を守ることになった。そして一九四六年三月に「人民自由防衛委員会」が発足、たちまち台湾各地に波及した。この辺の状況は、台湾大学教授の林茂生 (1887-1947) がその主宰する『民報』の社説で、「もはや台湾の法と秩序の維持は、完全に警察に任せられない状況にあり、光復して間もない今日、人民は自衛措置をとらざるを得ない」と論じ、長官公署の無能と腐敗を糾弾するとともに、厳しく批判した。その後五月に招集された台湾省参議会も、長官公署に対する怒りを爆発させ、その腐敗と失政を批判している。この頃の知識人の要求は、もっぱら行政改革と地方自治の実行、陳儀行政長官以下の貪官汚吏の更迭であった。しかし、長官公署はじめ南京の国民党政権中央は、この切実な要求と巻に溢れる不満の声に貸す耳をもたなかった。そればかりか一九四六年十二月に制定され、一年後に施行する予定の「中華民国憲法」の台湾適用について、陳儀行政長官は一九四七年一月に、「台湾人民は長期にわたり日本の統治下におかれたため、政治意識が退化しており自治能力を欠く」ことを理由に、二、三年先とすると言明し、台湾人の怒りをさらに助長した。

       二・二八事件

       台湾人の不満が鬱積していた一九四七年二月二十七日の夕暮れどき、台北市の淡水河沿いの台湾人商店街の大稲呈で起きた、密輸タバコ売りの取締まりに端を発したいざこざは、たちまちにして全台湾規模の「二・二八事件」に発展した。日本が降伏し、台湾が「光復」して一年四ヵ月後のことである。

       長官公署は総督府同様にタバコを専売局の専売品としており、重要な財源であった。しかし、長官公署の高官やその関係者は、大量のタバコを密輸して稼いでいた。いわば密輸タバコの元締めを放置しながら、末端の街頭小売人ばかりが摘発されることに、日頃から台湾人は不満を抱いていた。

       大稲呈のいざこざは、あらましつぎのようなものであった。

       取締員の傅学通(広東人)ら六名が、中年の台湾人寡婦の林江邁から、商品の密輸タバコの没収だけでなく所持金までも取り上げたため、林は跪いて現金の返却を哀願したが、返却されないばかりか銃で頭部を殴打され、血を流して倒れた。憤慨した群衆が、一斉に取締員らを攻撃したため、取締員らは逃げながら発砲、傍観の一市民にあたって即死させた。それがいっそう群衆を刺激することになり、ただちに近くの警察局と憲兵隊を包囲して、逃げ込んだ取締員らの引き渡しを要求したが拒否された。

        一夜明けた翌二十八日午前、怒った群衆は専売局台北分局に抗議し、分局長と三名の職員を殴打して、書類や器具を路上に放り出して燃やした。午後、群衆は長官公署前広場に集まり、抗議のデモを行なうと同時に政治改革を要求した。ところが長官公署の屋上から、憲兵が機関銃で群衆を掃射し、数十人の死傷者が出る惨事となった。ここにいたり事態は緊迫し、台北市の商店は軒並み閉店、工場は操業を停止、学生も授業をボイコットし、万余の市民が抗議の輪に加わり、市中は騒然となった。警備総司令部は台北市に戒厳令を布告したが、市民は放送局を占拠して、全台湾に向けて事件の発生を知らせた。三月一日には事件は台湾全土に波及し、大都市だけでなく一部の地方でも騒動が起こり、憤激した市民が官庁や警察局を襲撃し外省人を殴打して、一年余の国民党政権に対する不満をぶつけた。軍や憲兵隊、警察は発砲して鎮圧をめざしたが、収拾するどころか事態はますます悪化して行った。この日の『民報』は、事件について「官吏と軍人の無規律、横暴、貪欲」が原因と指摘し、国民党政権を批判する論調を掲げている。

      台北市では三月一日に、民意代表からなる「緝烟血案(タバコ取締まり流血事件)調査委員会」が結成され、代表を陳儀行政長官のもとに派遣して、「二二八事件処理委員会」の設置を要求して承諾を得た。さらに陳儀行政長官は同日午後に、①戒厳令の解除、②逮捕した市民の釈放、③軍や警察の発砲禁止、④官民合同の事件処理委員会の組織、およびこれらを放送することを約束した。翌二日、台北中山堂に民意代表を中心とした二・二八事件処理委員会が招集され、長官公署も五名の官吏を出席させた。会議の進行中に街頭で銃声がしたため、事件処理委員会は発砲した警察大隊の解散を要求したが、受け容れられなかった。

       翌三日、事件処理委員会は①事件処理委員会の組織拡大と各地に分会の設立、②武装部隊の街頭出動の禁止と、食糧購買の際の武器携帯の禁止、③交通の回復、④内外に事件の経緯と、台湾人は政治改革を要求するのみで、他に意図のないことの放送、など長官公署に対する要求を決議した。五日午後、正式に「二・二八事件処理委員会組織大綱」が採択され、そのなかで「台湾省政の改革」を趣旨とすることを謳っている。その要点は、①長官公署秘書長、民政、財政、工砿、農林、教育、警務などの処長、法制委員会委員の半数に台湾人を起用、②公営企業の経営を台湾人に委ねる、③ただちに県長や市長の民選を実施、④専売制度、貿易局、宣伝委員会の廃止、⑤言論、出版、集会の自由の保障、⑥人民の生命と財産の安全の保障、などである。こうして事件の善後処理を目的として発足した二・二八事件処理委員会は、政治改革の推進機関となったのである。

        三月六日、事件処理委員会は「全国の同胞に告げる書」を発表し、「このたびの事件を通じ、われわれの目標は貪官汚吏の一掃と、台湾の政治改革の実現であり、決して外省人の排斥ではなく、むしろ外省人の政治改革への参加を歓迎する」と述べている。翌七日、事件処理委員会は混乱のなかで、三二ヵ条からなる「処理大綱」を採択した。さらに激越な委員から提出された、警備総司令部の撤廃、武器弾薬を事件処理委員会の管理下とする、台湾の陸・海軍の軍人を台湾人で充てる、などの一〇ヵ条も追加採択した。この合計四二ヵ条の「処理大綱」は、ただちに放送を通じて発表された。しかし、翌八日午後に国民党政権の増援部隊が基隆港と高雄港から上陸し、台湾はたちまちにして生き地獄と化す。

       事件発生から国民党軍の増援部隊が到着するまでの数日間、長官公署の支配がおよんだのは、ほぼ軍隊の駐屯地周辺に限られ、行政と治安は事件処理委員会の掌握下となっていた。各地の大都市では、青年、学生、帰還した軍人などによる臨時的な組織がつくられ、軍隊や警察が保有する武器弾薬の管理を試みて衝突が繰り返されたが、何分にも急ごしらえの組織であり、武器らしい武器もなく失敗に終わった。そのなかでやや規模を備えたものに、台中市の鐘逸人を隊長とする「二七部隊」があり、また、戦闘らしい戦いが展開されたのは、嘉義近辺の水上飛行場の攻防戦であった。

       虐殺と粛清

        陳儀行政長官は台湾人の代表である事件処理委員会と交渉し、その要求を受け容れるかのように装う一方、ひそかに国民党政権中央に増援部隊の派遣を要請するとともに、危険人物のリストを作成し、台湾人の大粛清に備えていた。

     一九四七年二月八日午後、中国から派遣された憲兵第四団(連隊)二〇〇〇名と、陸軍第二一師団一万一〇〇〇名の増援部隊は、基隆港と高雄港から上陸し、そのまま手あたりしだいに台湾人に向けて発砲した。これらの部隊は先の接収部隊と違って、米国の援助で装備された近代的な部隊であり、武器のない台湾人の抵抗できるところではなかった。

       陳儀行政長官は増援部隊の到着の報を聞くと、ただちに二・二八事件処理委員会を不法組織であるとして、解散を命じた。それまでの交渉が嘘のような変わり様であった。台湾人に対する無差別の殺戮は基隆と高雄に始まり、台北から屏東さらに東部に転じ、約二週間で台湾全土におよび、台湾人の抵抗は完全に鎮圧された。殺戮には機関銃が使用されたほか、鼻や耳を削ぎ落とした上に、掌に針金を通して数人一組に繋いだり、麻袋に詰めて海や川に投げ捨てるなど、きわめて残虐なものであった。逮捕されても処刑の前に市中を引き回され、処刑後は数日間にわたり、市民へのみせしめとして放置された人も多々あった。とても二〇世紀に生きる文明人のなせる業とは信じがたい野蛮な手口であり、「祖国」や「同胞」の仕業ではあり得なかった。

          市民に対する虐殺の一方、警備総司令部は三月十四日に「二月十三日までに全省を平定し、即日より粛奸工作を開始する」と発表し、ただちに戸籍調査の名目で、全面的な捜査と逮捕を開始した。「粛奸」の対象は、事件に直接関与した者はもとより、無関係の多くの社会的な指導者にまでおよび、危険人物と見られた民意代表、教授、弁護士、医者、作家、教師など大勢の知識人が逮捕された。どうやら長官公署は意図的に、日本教育を受けた知識人を根こそぎ粛清するかのようであった。当時の台湾の知識人を代表する、大学教授の林茂生、弁護士の湯徳章、医師の張七郎父子も、このとき悲劇に遭った。

      林茂生は一八八七年、屏東の敬虔なクリスチャンの家に生まれ、京都の第二高等学校を経て、一九一六年に東京帝国大学文学部を卒業した。台湾総督府と文部省の在外研究員として、米国のコロンビア大学に留学、一九二九年に哲学博士の学位を授与されている。日本の敗戦後に台湾大学文学部教授に就任、「二・二八事件」当時は文学部長を兼ね、『民報』の社長も務めていた。国民党政権の腐敗を痛烈に批判したため、陳儀行政長官に睨まれており、三月九日の夜に自宅から連行されたまま、いまだに消息を絶っている。しかしながらその後、家族や関係者が調査したところでは、林茂生は逮捕された後に即刻処刑され、遺体は麻袋に詰められて、淡水河に捨てられたという。

      湯徳章は一九〇七年、台南で日本人警察官と台湾人女性の間に生まれた。台南師範学校を中退した後、警察官になり警部まで務めたが、日本人の事故処理をめぐる上層部との衝突から退職し、幼少時に亡くした父の生家を頼って中央 大学に進学し、卒業後に司法試験に合格、台南に戻り弁護士を開業した。日本の敗戦後も台湾にとどまり、台南の名士として活躍、台南市人民自由防衛委員会の主任委員を務めた。「二・二八事件」が台南に波及したため、三月六日に二・二八事件処理委員会台南市分会が発足され、治安部長に就任した。陳儀行政長官の承認にもとづき台南市各界は八日、三名の台南市長候補を推挙、湯徳章もその一人であったが、増援部隊が台南市に侵攻した十一日に逮捕された。逮捕に先だち自宅を包囲された湯徳章は抵抗して時間を稼ぎ、事件の関連書類を処分した。これにより台南市の多くの関係者が救われている。湯徳章は一夜の拷問と市中引き回しの後、十二日に処刑された。このとき湯徳章は兵士の命令を拒んで跪くことなく、直立して微笑を浮かべ、毅然として死を遂げたといわれる。その処刑から相当の日時を経て、台湾高等裁判所の無罪判決が届いたが、これは逮捕、処刑、裁判のすべての杜撰さを物語るものである。

      張七郎は一八八八年、新竹に生まれた。一九一五年に総督府立医学校を卒業、総督府立基隆病院などに勤務した後、一九二一年に花蓮の鳳林で開業した。一九四六年三月に花達県参議会議長に当選、十月には中華民国憲法制定の国民代表に選出された。十二月に憲法制定会議に加わるため南京に赴き、翌一九四七年はじめに鳳林に戻ってすぐに病床に伏した。本来、自宅で療養中の張七郎は「二・二八事件」とかかわりがなく、花蓮県長の候補に推挙されていたに過ぎない。しかし、四月一日に増援部隊が鳳林に到着、四日午後に張七郎を逮捕した。また、ともに医師の張宗仁(長男)と張果仁(三男)は、兵士の急病を口実に呼び出され、そのまま逮捕された。張父子三人はその夜のうちに鳳林郊外の公営墓地で銃殺されている。後に警備総司令部は、「張七郎、張宗仁、張果仁は党と国家に叛いて暗殺団を組織し、逮捕に抵抗したため射殺した」と、処刑の理由を遺族に伝えている。もとより遺族は逮捕と遺体収容の状況から、警備総司令部の説明に承服していない。張七郎の妻は当局に真相の追及を要求し、訴冤状のなかで「日本の統治は独裁とはいえ、なお呉越同舟が可能であり、法にしたがいみだりに逮捕したり、処刑したりはしなかった。今日、民主の美名のもとで生命の保障がなく、官憲はしたい放題である。官が法律や綱紀にしたがわないのに、どうして民に法が守れようか。悲しいかな、夫と息子はなぜ光復以前に死なず、このような清廉潔白の一生を汚されるとは。光復して後に死し、しかも無実の罪で耐えがたい汚名を着せられている」と嘆いている。鳳林にある張父子三人の墓標に刻まれた、「両個小児為伴侶、満腔熱血洒郊原」(二人の息子が伴侶となり、満身の熱血を野原にさらした)の文字は、遺族の悲しみと憤り、無念さを伝えて余りある。

       台湾人の悲劇は、日本統治下で体得した「法治国家」「法の支配」の精神を、国民党政権にも期待し、幻想を抱いたことである。知識人の多くは「治安警察法違反事件」(一九二三年)を経験しており、政府を批判したり抵抗しても、「悪法」とはいえ法にしたがって裁判と処罰を受けている。ところが「祖国」には、「法の支配」の概念のカケラさえなく、ただあるのは、批判や抵抗する者を容赦なく「鉄砲で裁く」ことであった。

       台湾人に対する過剰なまでの鎮圧と殺戮は、国際社会とくに米国の厳しい批判を招いた。米国のスチュアート中国駐在大使は四月十八日、蒋介石に「台湾情勢に関する備忘録」を手渡し、国民党軍の台湾における非人道的な暴行に厳しく抗議した。このときの国民党政権は、国共内戦で敗色を強めており、米国の援助にすがる状況にあった。蒋介石は米国の意向を無視できず、同月二十二日に陳儀行政長官を免職し、五月一日に南京に召喚した。ちなみに陳儀はその後、浙江省政府主席に任じられたが、国共内戦が緊迫する一九五〇年二月に、中国共産党に通じた容疑で逮捕され、台湾での軍事裁判で「反乱罪」となり、六月十八日に処刑された。

        二・二八事件のその後

       虐殺と粛清に脅える台湾人は、だれもが風声鶴唳と草木皆兵の、極度なまでの恐怖の日々を送っていた。三月十四日の警備総司令部の「粛奸工作」につづいて、長官公署は二十日に「清郷工作」を開始した。陳儀行政長官は「清郷実施にあたり民衆に告げる書」を発表し、そのなかで「政府は善良な人民を保護し、治安を維持、徹底的に悪人を粛清するため、清郷を実施して少数の乱党と叛徒の隠匿を絶つ」「主な対象は武器と悪人であり、すべての武器と悪人を政府に引き渡し、政府による合理的かつ合法的な処置に委ねよ」と述べている。「悪人」とは国民党政権にとって不都合な人物にほかならず、ただちに五人連座制度と密告奨励制度を通じて、シラミ潰しの「人狩り」と「武器狩り」が全面的に展開された。このときにも多くの台湾人が逮捕されたが、ほとんどは公開の裁判を受けることなく断罪された。また、逮捕された市民の家族のなかには、「贖罪金」という名の高額なワイロを要求された者もいた。「二・二八事件」関係者の逮捕は、一九四九年にいたり緩和されたものの、「要注意人物」の逮捕と監視は、その後もながらくつづいた。

        「二・二八事件」に関連して、一ヵ月余の間に殺害された台湾人は、国民党政権のその後の発表によれば約二万八〇〇〇人を数える。これは当時の台湾人の二〇〇人強に一人が犠牲になったといえ、日本の五〇年間の統治において、武力抵抗で殺戮された台湾人の数に匹敵する。逮捕されて有期あるいは無期の刑に処された人数にいたっては調べようもないが、膨大な数であったことは疑いない。しかも知識人が粛清の標的であっただけに、台湾人の指導者のほとんどが殺害され、または「粛奸」「清郷」の名で検挙されて、長期にわたり投獄されたため、その後ながらく台湾人社会に指導者の空白が生じている。

        その後も戒厳令の施行と白色テロのもとで、台湾人は政治的な沈黙を強いられた。国民党政権は台湾人の政治改革の要求を正面から対処することなく、虐殺と粛清で封じ、それが外省人と台湾人の対立をもたらした。今日、台湾人(本省人)と外省人の対立、つまり「省籍矛盾」の原点は、ほかならぬ「二・二八事件」である。こうした背景のもとで、台湾人に国民党政権と外省人に対する嫌悪感と台湾独立の志向が芽生え、台湾で許されなかった政治運動や台湾独立運動は、海外で展開されることになった。

       逮捕と殺害をまぬがれて海外に逃れた知識人は、廖文毅(一九一〇年雲林生まれ、米国オハイオ大学工学博士)を中心に、「台湾再解放同盟」を香港で結成した。廖文毅らは一九四八年九月一日、国連に請願書を送り、台湾を国連の信託統治下におき、台湾の帰属または独立を台湾人の投票で決めるよう訴えた。中国情勢の急変もあって、この請願の趣旨は国際社会の一部に受け容れられている。廖文毅は一九五〇年二月に来日し、同志とともに京都で「台湾民主独立党」を結成、みずから主席に就任し、 一九五六年二月には東京で「台湾共和国臨時政府」の樹立を宣言し、臨時大統領となった。その後、廖文毅は一九六五年五月に国民党政権に「帰順」し、台湾独立運動に少なからぬ打撃を与えたが、独立運動の先駆者として果たした役割は無視できない。廖文毅の「帰順」で、「台湾共和国臨時政府」はなしくずしに消え、在日の台湾独立運動は戦後に来日した留学生らの「台湾青年社」が担うところとなった。 一九六〇年四月に『台湾青年』が創刊され、爾来三〇数年にわたり中断することなく刊行されている。かくも息の長い『台湾青年』は、台湾独立運動の機関誌の役割にとどまらず、台湾に関する内外の情勢を網羅し、もっとも正確に分析していることから、国際社会にも高く評価されている。

       一九六〇年代になると、世界各国ことに米国への台湾人留学生が急増した。米国各地に台湾独立運動関係の組織があいついで結成され、米国政府や議会に対して、台湾の民主化と独立のための効果的な工作と説得を展開している。このような事情から、海外での台湾独立運動の中心は日本から米国に移り、一九七〇年一月に総本部をニューヨークにおく「台湾独立聯盟」(後に「台湾独立建国聯盟」)が発足し、台北に地下組織の台湾本部、ロスアンゼルスに米国本部、東京に日本本部、パリにヨーロッパ本部、サンパウロに南米本部が設けられ、世界的な組織に発展したのである。

       台湾独立運動が海外で展開されるにともない、一九五〇年代から日本をはじめ世界各国の台湾人社会では、毎年、「二・二八事件」の記念行事が行なわれている。この痛ましい日を「国殤記念日」と称する台湾人も少なくない。国民党政権はながらく「二・二八事件」に触れることをタブーとし、事件について書くことも語ることも禁じてきた。国民党政権の反対を無視して、事件後四〇年の一九八七年二月に、ようやく「二・二八和平促進会」が台湾で結成された。和平促進会は事件の真相を究明した上で、台湾人を虐殺した犯人の罪を赦し、二月二十八日を「和平を祈願する記念日」とすることを趣旨とし、二月十四日から三月七日までに、二二回にわたり二・二八追悼集会を開いた。あまりにも遅い、犠牲者への追悼であったが、以後毎年、追悼集会が台湾各地で催されている。また一九八九年二月、嘉義に慰霊碑が建立された。さらに一九九〇年二月には、国会にあたる立法院ではじめて「二・二八事件」の犠牲者に対して黙祷が捧げられた。

 先の文章     次の文章