ホームページ     略年表          漢文版     英語版  

 序章   大航海時代の波しぶき

     麗しき島・Ilha Formosa

    一五世紀も終わろうとする一四九二年、コロンブスがアメリカ大陸を「発見」した。それから数年後の一四九八年には、ポルトガルのパスコ・ダ・ガマが、アフリカ最南端の喜望峰をまわって、インドにたどり着いた。時は大航海時代のただなかで、ヨーロッパ中心の史観では「大発見の時代」である。この頃、西ヨーロッパ諸国は競って未知の世界への探検、植民、貿易、布教活動に勢力を注ぎ、世界地図を大きく塗り変えていた。

    アジア進出の先頭をきるポルトガルは、一五一〇年にインドのゴアを占領し、一年後の一五一一年には、インド洋と太平洋を結ぶマラッカ海峡の要衝を制していたマラッカ王国を滅ぼして、港町マラッカを掌中にした。これによりポルトガルは、マラッカ海峡を支配下におさめ、リスボンからアジアへの航路を独占する形となり、マラッカを基地に東南アジアおよび東北アジア、つまり東アジア全域における貿易と、布教の独占をはかったのである。さらに中国や日本との貿易をめざして北上し、一五三七年には中国のマカオを占拠した。種子島に漂着したポルトガル船が、日本に鉄砲を伝えたのは、それから六年後の一五四三年のことである。

   台湾は西太平洋で活躍するポルトガル人によって、「発見」された。それは台湾付近の海域を航行中の船員が、緑したたる美しい島影を目のあたりにして、「Ilha Formosa!(イラ・フォルモサ!)」と感嘆の声をあげたことに始まる。現在のところこの「発見」は、ポルトガル船の種子島漂着の翌年、つまり一五四四年のことと推定されている。Ilhaとは島、Formosa とは麗しいという意味で、すなわち「麗しき島」である。もっともポルトガル人は、航海の先々で美しい島を見るたびに、「イラ・フォルモサ!」と賞賛して、その島の名としてきたので、アフリカ、南アメリカ、アジアの各地には10を越す、この名の島があったとされる。しかし、今日ではフォルモサは台湾をさす固有名詞となっており、とくに欧米諸国では台湾を Taiwan ではなく、フォルモと呼ぶこともしばしばである。

   倭寇・海賊の巣窟

    西ヨーロッパ勢力の東漸とほぼ時を同じくして、中国大陸の東南沿岸を長期にわたり騒擾してきた、倭寇や海賊の勢力もそのきわみに達していた。

    倭寇とは、室町幕府の統制力の衰退と戦国時代の混乱に乗じて、東アジア海域を荒しまわった、九州、四国、瀬戸内海を根拠地とする「武装強制貿易集団」、要するに海賊のことである。この集団には、かなりの朝鮮人や中国人が加わっていたことから、東アジア海域の「連合武装勢力」ともいわれており、中国の明王朝が国力を傾注して、倭寇退治に臨んだものの、ほとほと手を焼いたほどに、その勢力には凄まじいものがあったようである。明王朝の衰亡の原因の一端は、ほかでもないこの倭寇掃討にあったとされる。もとより中国は同じ時期に、中国人を中心とした海賊が存在したことは肯定するが、倭寇に中国人が加わっていたとは認めない。「倭」は日本人の蔑称、「寇」は盗賊のことであり、倭寇すなわち日本人盗賊団だという解釈からである。

    倭寇と海賊は、活動の舞台が交錯していたばかりでなく、民族的にも混淆しており、両者の厳密な区別は難しい。いずれにしても、台湾が倭寇や海賊の格好の巣窟であったのは事実である。というのは倭寇や海賊は、中国の沿海地域を荒しまわり、官憲の反撃に遭うと、まずは澎湖列島に逃げ、さらには台湾に逃げたからである。官憲は澎湖列島までは追撃するが、台湾までは深追いしなかった。一六世紀のこの頃、明王朝はまだ台湾の地理に不案内で、そこは風土病の蔓延する、恐ろしい未開の地と考えられていたのである。

    今日の澎湖列島は台湾に属しているが、当時は、台湾から出没する倭寇や海賊を防ぐための、中国の前線基地であった。そのためもあって澎湖列島の存在は、台湾よりも早くから知られていた。中国の史料によれば、すでに元王朝の一四世紀末には、澎湖列島の警備と治安にあたる、「巡検司」がおかれていたほどである。

   先住民と高山国

    倭寇や海賊の巣窟となっていた台湾は、ユーラシア大陸の東端にあり、南北約四〇〇キロ、東西約二〇〇キロのサツマイモの形をした島で、約三万六〇〇〇平方キロ、ほぼ九州の面積に相当する。中国大陸とは約二〇〇キロの台湾海峡で隔てられ、澎湖列島をはじめとする七六の島々を擁し、珊瑚礁の点在するバシー海峡をはさんで、フィリピンのルソン島とは約三五〇キロ、沖縄県の与那国島とはわずか一二〇キロの距離にある。

   ポルトガル人が「発見」した一六世紀半ばの台湾には、わずかの漢族系の移住民のほかに、先住民(今日の台湾で高山族という)と総称される、マレー・ポリネシア系の人々が先住していた。今日では先住民は台湾の少数民族となっているが、当時はほぼ台湾全域に分布していた。マレー・ポリネシア系とはいうものの単一の部族ではなく、アタヤル族、サイシャット族、ツォウ族、ブヌン族、ルカイ族、パイワン族、アミ族、プュマ族、ヤミ族の九つの部族のほかに、平埔族と称されるケタガラン族、ルイラン族、カバラン族、タオカス族、パゼッペ族、パポラ族、パブザ族、ホアニヤ族、シラヤ族がそれぞれの言語と風俗習慣をもち、独自の社会を構成していたのである。言語、風俗、習慣、居住地域などの相違から、先住民は別々の時期に、異なった地域から台湾に移住してきたと思われる。今日では、平埔族は漢族系の移住民との通婚や漢族化により、ほとんど目立つ存在ではない。先住民が「高砂族」と称されたのは、一九二三年に昭和天皇が摂政として、台湾を視察したときのことである。

    しかし、多部族に分かれていたため、ついに台湾には先住民による統一した政権や、王権が樹立されないままに外来の民族に押されて、少数民族への道をたどることになったのである。この点、戦国時代の混乱を収拾して日本を統一した豊臣秀吉が、一五九三年に原田孫七郎を使者にたて、台湾の「高山国」に入貢を促したが、実現しなかったことからも窺える。そもそも台湾のだれに、秀吉の書簡を手渡すべきかが分からなかったのである。「高山国」の呼称の由来は、つまびらかではないが、多分に台湾の三分の二を山地が占め、三〇〇〇メートル級の六〇を超す山々を擁していることからであろう。はからずもこの「高山国」宛の秀吉の書簡は、台湾を一つの国として扱った最初のものとなった。ちなみに、このときの書簡は今日、加賀の前田家に伝えられており、下地に金箔をほどこし、桜の模様を描いた鳥の子紙に、雄渾な筆跡でしたためられている。

   タイワンの出来

    平埔族を除く先住民は対岸の中国の福建や広東から台湾海峡をわたってきた漢族系の移住民によって、次第に山間部に追いこまれて行くうちに、あたかも山岳民族かのようになった。ただ、ヤミ族は離島の蘭嶼にすみ、海洋民族として今日まで暮らしている。第二次世界大戦後に台湾を支配することになった中華民国の国民党政権は、日本の統治時代に名づけられた「高砂族」を、「高山族」に改めた。

    高砂族にしろ高山族にしろ、いずれも「先進民族」と自任する日本人や中国人が、一方的に命名したものである。決してその民族みずからが名のったものではなく、その根底には、先住民を「未開、野蛮」としか見ず、「蕃人」視する軽蔑意識が潜んでいた。そして台湾を支配してきた外来政権のオランダ、鄭氏政権、清国、日本、国民党政権のいずれもが、「蕃人」対策のいわゆる「理蕃政策」のもとで、先住民を漢族系の移住民から隔離し、「分割支配」の策を弄してきた。そればかりでなく、先住民の「蛮性」を意図的に印象づけてきたのである。今日、マレー・ポリネシア系の民族は、東南アジアの島嶼部に広く分布し、フィリピン、インドネシア、マレーシア、ブルネイの主要民族として、その文化と伝統に高い誇りを抱いている。台湾の先住民の場合は大航海時代以来、今日にいたるまで常に抑圧されつづけ、近代文明から遠ざけられてきたため、独自の文化と伝統を発展させ、洗練させる環境に恵まれなかった。あまつさえ平野部から山岳地帯という、僻地に押しやられているのである。

    もともと「タイワン」とは、かつて台南付近に居住していた先住民のシラヤ族が、外来者あるいは客人を「タイアン」(Taian)、または「ターヤン」(Tayan)と称していたのが訛って、「タイワン」となったものである。これを聞いた漢族系の移住民は、「台員」「大湾」などの、日本人は「大宛」「大冤」などの漢字をあてた。それが島そのものを指す固有名詞となり、「台湾」と慣用されるようになったのは、明王朝の万暦年間(1573―1620)のことである。ちなみに、オランダ人は「Taioan」とも書いた。

    タイワンの名の由来から見ても、先住民にとって移住民や外来者は、「客人」でしかなかった。それがいつの間にか「客人」によって「理蕃政策」の対象とされ、「蛮人」扱いされることになったのである。この点、アメリカ大陸の先住民たるインディアンとインディオのたどった運命と、きわめて共通している。

   台湾海峡の波高し

   ポルトガルやスペインのアジア進出に後れをとったオランダは、一五九六年十一月に、今日のインドネシアのジャカルタ(オランダ人はパタビアと改名)に到着した。そして一六〇二年三月に、新たに獲得した植民地を経営する特許会社、人類史上最初の株式会社といわれる「オランダ連合東インド会社」を設立し、アムステルダムに本社をおいた。オランダはバタビアに拠点を確保すると、ただちに中国や日本との貿易をもくろみ、そのための中継基地の獲得に乗りだした。バタビアに本拠をおくオランダ艦隊が、台湾海峡に連なる澎湖列島をめざし、その主島である澎湖島に上陸したのは一六〇三年のことで、これが西ヨーロッパ勢力が台湾の地に足を踏み入れた最初であった。

    澎湖島には元王朝時代に巡検司がおかれていたが、その後、明王朝は一三八八年にこれを廃止し、澎湖列島を放棄した。しかし、オランダ艦隊の到来の報を知ると、明王朝はただちに軍勢をくりだし、澎湖島から追いだした。澎湖島の占領に失敗したオランダ艦隊は、ポルトガルの支配下にあるマカオを襲うが失敗したため、一六二二年七月に再び澎湖島の占領をはかり、こんどは成功した。

    澎湖島に上陸したオランダ艦隊は、住民と寄港中の漁船の漁師を動員して、馬公に要塞を構築し、パタビア――馬公――中国――日本を結ぶ、中継貿易の拠点とするとともに、台湾海峡の制覇を試みた。これに対して明王朝は翌一六二三年九月に、中国の東南沿岸にね禁令(船舶の出入を禁止する命令)をしき、一六二四年一月には澎湖島を攻撃した。そして八ヵ月におよぶ攻防のすえの同年八月に、明王朝はオランダ艦隊の澎湖列島撤退を条件に、オランダの台湾占領を認めるとともに、オランダとの貿易に同意するという停戦協定案を提示した。オランダにしてみれば、思いがけない好条件であった。澎湖島の占領に固執しても、明王朝の軍勢にはかなわず、しかも台湾は澎湖列島と比べてはるかに土地は広く、東アジアの貿易ルートの要衝に位置しているばかりか、すでに日本との貿易も行なわれていた。台湾を領有すれば、中国や日本との貿易の独占の可能性もある。ただちに停戦協定が結ばれ、オランダ艦隊は澎湖島にある要塞をはじめとする軍事施設を破壊して、台湾島に移動した。

    明王朝がかくも簡単に、オランダの台湾島占領と領有に同意したのは、もともとこの地を領土とは見なしてはいなかったからにほかならない。 

   次の文章