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あとがき
勇躍してペンを走らせる、否、ワープロのキーを叩くはずであった。ところが折りしも私は二松学舎大学が開設する、国際政治経済学部に迎えられることになり、しかも学部が発足したその日に学部長が病に倒れたため、思いもかけない雑務に追われる身となり、今なお多くの「役職」(厄職)に縛られている。そんなこんなで小著の構想は膨らむが、原稿は遅々として進まなかった。この間、せっかくの執筆や講演の依頼をお断わりするのは心苦しく、とくに専攻分野に関しては研究発表の機会を逃したくない気持ちもあって、ますます己が首を締める事態に陥り、休日なしの「月月火水木金金」の日々にもかかわらず、小著は意に反して脱稿までに五年もの歳月を費やすことになった。糸魚川氏はじめ新書編集部には、FL迷惑をかけました」の一語では済まないものがある。 ただ一つ、自責の念を軽減させてくれるのは、脱稿が遅れた分、それだけ新しい台湾の情報を小著に加えられたことである。 一九九〇年五月二十日に台湾人の李登輝氏が第八期総統に就任してからの台湾は、あけても政治的に大きく転換している。戦後、国民党政権のもとで四〇年近くもの間、戒厳令下におかれた台湾では、台湾人の政治的な権利が著しく侵害されてきた。それがあたかも、永らく堰止められていた民主化の流れが、 一気に奔流となった感があり、ここ三年間の激変ぶりは「無血の革命」といわれるほどである。おそらく小著の原稿が順調に進み、この間の政治的な変貌を紹介することなく刊行されていたならば、地団駄を踏むほどの悔しい思いが残ったであろう。紙幅の制約もあって、民主化の過程を詳細に記述することはできなかった。しかし、台湾に浸透しつつある民主化の動きのおおよそは、感じ取っていただけると思っている。「ケガの功名」といっては、気をもませてしまった新書編集部に叱られるであろうか。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 大航海時代の波濤が台湾にも押しよせて、すでに四世紀半の歳月が流れた。その間、台湾はオランダ(スペイン)、鄭氏政権、清国、日本、そして国民党政権という、いずれも「外来政権」に支配されてきた。それぞれの支配期間に長短はあるが、支配者の交代にともなう諸々の変転の複雑さは推して知るべしであろう。これを新書一冊にまとめることは難しく、当然ながら割愛せざるを得ない部分も多く、小著では政治と経済に比重をおいている。一言でいえば、 一六二四年のオランダの支配に始まる台湾の歴史は、いわば「外来政権」による抑圧と住民の抵抗の記録である。 日本統治下の台湾に生まれ、国民党政権の統治下で一六年間にわたり教育を受けた私は、日本に留学するまでついに台湾の歴史を学ぶことはなかった。国民党政権が「台湾人が台湾の歴史を知ることを歓ばなかった」からである。台湾人に台湾の歴史を学ぶことが許されたのは、民主化が進展するなかの最近のことである。 一八九五年に始まる日本の統治時代には、後藤新平の「生物学的植民地経営」にもとづく旧慣調査の一環として、台湾の史料調査と整理も行なわれ、台湾総督府は一九二九年から『台湾関係史料』を刊行している。一九四五年に始まる国民党政権の統治においては、台湾関係史料の整理どころか、「中国唯一の正統政府」を固持し、その台湾支配を正当化するために、「台湾は中国の固有の領土」であると教え、台湾の歴史を恣意的に歪めてきた。台湾において永らく台湾史の研究と教育が阻害されてきたのは、政権の正当性の矛盾を衝かれることを警戒したからにほかならない。このような状況のもとで、戦後の台湾史の研究はほとんどが外国、なかでも日本に留学した人々の手によって始められたといっても過言ではない。日本には台湾史研究のための史料や資料がもっとも多く保存されていたからである。ちなみに私が来日して早々、古本屋で手にした故伊能嘉矩先生の名著『台湾文化志』(全三巻、刀江書院)もその一つで、そのときの驚きと感激は今なお鮮やかに甦るほどに強いものがあった。奇しくも台湾史の碩学である伊能先生は、若かりし日にわが二松学舎にも学ばれたことを知り、「運命の糸」を思うことしきりである。 民主化が進捗するにつれて、今後は国民党政権下でも台湾史の自由な研究が期待できるであろう。私としてはこの日本で、政治的になんらの制約も受けずに、自由な立場で小著を刊行できる幸福を味わっている。新書ゆえに概説とならざるを得ないが、一日か二日で台湾の過去と現在をほぼ掌握できるのも、新書ならではである。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 小著がたどった四〇〇年に近い台湾の変遷を振り返って見れば、ことに半世紀におよぶ日本の統治は、善きにつけ悪しきにつけ、今日の台湾の基礎を築き上げたといえよう。少なくとも台湾は、日本の統治で「植民地下の近代化」を成し遂げたことは事業であり、わけても教育制度の整備と普及は、大書特筆すべきものである。国民党政権が台湾を「接収」すると同時に、義務教育を施すことができたのもその恩恵といえる。 もとより私には、日本の台湾における植民地支配を美化する意図は毛頭ない。台湾を支配した大日本帝国は「慈善団体」ではなく、その植民地経営が「慈善事業」でないことは当然であり、「植民地下の近代化」も日本の「帝国主義的な野心」に発したものである。しかし、「植民地支配は悪」の観点からすれば、「植民地下の近代化」は否定され、それを肯定するような見解には、 「反動」のレッテルがつきまとう。ひと頃、日本の植民地支配の批判には、形容詞のように「帝国主義」が用いられ、大量に使用する傾向があった。台湾の歴史は「外来政権」の支配の歴史であり、物理的な武力装置による「帝国主義」支配の歴史でもある。それゆえに私は、日本の台湾統治における「植民地下の近代化」を強調するのである。日本の台湾統治に対して最大級の賛辞を呈したのは、ほかでもない中華民国政府(国民党政権)が、一九三七年に刊行した『台湾考察報告』なる報告書である。この報告書は一九三五年に台湾総督府が、「始政四〇周年記念博覧会」を催したとき、当時の国民党政権が台湾に視察団を派遣し、博覧会はもとより日本統治下の台湾の施政を、一二項目に分けてつぶさに視察した記録である。ちなみに、この報告書は日本でも台湾でもなく、米国のコーネル大学図書館に保存されている。 『台湾考察報告』があるにもかかわらず、戦後、国民党政権は日本の台湾統治を否定し、日本による教育を「奴隷化教育」ときめつけている。台湾人に対する虐殺と粛清である一九四七年の「二・二八事件」は、この「奴隷化教育」による知識人の一掃をはかったものであり、公的な発表でも二万八〇〇〇人が殺害された。今日、国民党政権による公式な謝罪こそないが、民主化の流れのなかで、犠牲者への国家賠償条例の制定と、責任の追及がなされようとしている。そして、この「二・二八事件」をはじめ、国民党政権が恣意的に歪めてきた歴史の書き換えも始まろうとしている。いずれ日本統治の台湾史における位置づけも変わり、「植民地下の近代化」にも光があてられるであろう。 小著は日本人の読者を対象にしているからといって、日本の台湾支配に対する批判を避けたり遠慮もしていない。ひたすら日本の読者に「台湾」を紹介することを心がけたつもりである。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 小著が脱稿した後も台湾には大きな動きがあった。本年四月二十七日から三日間、台湾と中国が「民間組織」を装い、シンガポールでの会談を実現したのもその一つである。これは台湾と中国の「和解」を意味するが、「統一」への第一歩ではない。「あとがき」が多少長くなるが、画期的なできごとであり、触れておく必要があろう。 中国政府は一九七九年一月の米・中の国交正常化を機に、台湾問題の平和的な解決を求める米国政府の勧告を受け容れた。これ以後、中国政府は台湾に対する「武力解放」から「平和統一」へと、国民党政権も「大陸反攻」から「三民主義による中国統一」へと、スローガンを変えた。そして中国政府は「三通」(通郵、通商、通航)を台湾に呼びかけ、国民党政権は「三不政策」(接触せず、交渉せず、妥協せず)で応じた。国民党政権にすれば、「統一」は中国による「鯨呑」であり、拒絶は当然であった。 しかし、李登輝総統・国民党主席が「統一」を標榜せざるを得ないのは、外省人長老を中心とした保守派対策という党内事情と、中国による武力侵攻を回避するため、さらには一〇〇億米ドル以上に達した中国投資の保護と、年々増大する中国貿易に対処するため、などの理由による。「三不政策」にもとづき、李登輝総統は一九九〇年九月に、総統の中国(大陸)政策の諮問機関として「国家統一委員会」を設置し、九一年一月には中国政策の策定機関として、行政院に「大陸委員会」(省・庁に相当)を設けた。二月には中国政策の執行機関として、民間組織の「海峡交流基金会」を設立する一方、「国家統一綱領」を制定し、明確な日程表はないが、「統一」までの過程に短期、中期、長期の段階を定めた。そして、「統一」の条件として中国における、①政治の民主化、②経済の自由化、③社会の公平化、④軍隊の国家化、の四点を付している。 「統一」の四条件に加え、「統一」までの各段階を超えるのは容易ではない。現段階は「短期」にあり、中国との交渉は「三不政策」のもとで、民間組織による交流と互恵に限られ、「中期」の政府レベルによる互信と協力を経て、「長期」の政府間による「統一」の協議段階にいたる。そして「中期」の段階にいたるには中国政府が、①台湾を国家に準ずる「政治的な実体」と認め、②台湾に対する武力侵攻の放棄を表明、③台湾の国際社会での活動と国際組織への加盟を妨害しない、ことを条件としている。 このように「統一」の四条件といい、「中期」段階にいたる三条件といい、いずれも中国政府の受け容れるところではなく、「和解」のシンガポール会談は実現したものの、「統一」への道程は遠く、おそらく到達することはないであろう。その証左として、シンガポール会談後、国民党政権は民進党に歩調を合わせ、国連加盟運動を推進するようになった。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 序章を含めて小著は一二章からなり、「終章」はない。台湾を故郷とする私の願いを込めてのことであり、台湾が永遠にこの地球に在りつづけることを、心から希求してやまないからである。 小著が曲がりなりにも完成できたのは、多くの先学の業績に負うところ大である。なかでも台湾で台湾史の研究をつづけておられる李彼峯氏と楊碧川氏のお二人には、資料提供と史実の確認でお世話になった。また東京大学大学院に在学中の蔡易達氏には、記述内容と用語の丹念なチェックを、台湾経済専門家の劉文甫氏には、戦後の台湾経済に関して資料提供と助言を賜わった。さらに台湾問題研究家の宗像隆幸氏には、海外の台湾独立運動と、米国議会の台湾民主化支援に関する資料提供をしていただいた。ここに心からの謝意を表したい。当然ながら文責は私にある。 思えば脱稿までには五年の歳月が流れ、予想外に「難産」であった。親友の松山茂夫氏には『鄭小平伝』の執筆当時と同様に、終始わがことのように関心を寄せ、励ましていただいた。また、新書編集部の糸魚川昭二氏は絶妙なタイミングと、硬軟織りまぜたテクニックで、原稿の進行を督促してくださった。「難産」の小著にとり、お二人はまさに優れた「助産夫」であった。あらためて感謝を申し上げたい。 私事で恐縮ではあるが、一九八九年八月十八日に台湾に在住していた母の劉珠が急逝した。発病からわずか四日目の他界であり、病床を見舞うことも、長男としてこの手で葬儀を営むことも叶わなかった。母は日本語で教育を受けた世代であり、在りし日に小著を読んでもらえなかったことが心残りである。小著を亡き母に捧げたい。 一九九二年六月三十日 伊藤潔 |