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第十章  奇跡の経済発展

    幣制改革と土地改革

    「流亡政権」といわれる国民党政権が、台湾で生きのびるには、政治の安定と経済の再建を急ぐしかなかった。そのため国民党政権は、一党独裁の強権政治体制を構築する一方、経済の再建と復興を最優先させた。これがいわゆる「開発独裁」である。そして経済の再建と復興にとどまらず、「奇跡」といわれるほどの成長を成し遂げた今日、台湾の「開発独裁」は「台湾経験」(台湾モデル)として、開発途上国の範とさえされている。

    国民党政権に接収された当時の台湾は、行政長官公署の人為的な失政に加え、中国における国共内戦の影響により経済的な混乱を深めており、ほどなくして危機的な状況を迎えた。なかでもインフレの昂進は凄まじく、一九四五年から五〇年までの約五年間に、物価の上昇は一万倍にも達している。市民生活は窮乏し、加速度的なインフレへの対処として、月のはじめに決める月給は、月末にはその何分の一の価値しかもたなかったほどである。日々刻々と進むインフレは、経済活動を混乱させ、市民生活を容赦なく圧迫した。その上に、国民党政権とともに官吏や軍人、その一部の家族ら約一五〇万人が台湾に移り住み、消費人口は一気に膨れ上がり、ますます台湾経済を窮地に陥れた。

    中国共産党関係者の潜入を防ぎ、かつ人口の過剰流入を抑制するため、警備総司令部は一九四九年二月から港や河口を封鎖、海岸線も管制下におき、許可された者以外の台湾入境を認めなかった。さらに同年六月十五日には、中国と台湾の貨幣の関係を断ち、従来の四万台湾元を一新台湾元(NT$、これ以後の台湾元はすべて新台湾元)とする、デノミネーションを断行した。このいたって手荒な幣制改革は、台湾人に苛酷な犠牲を強いるものではあったが、中国における天井知らずのインフレの影響を遮断するものともなり、台湾貨幣ひいては経済の安定には必要な措置であった。翌一九五〇年六月に朝鮮戦争が勃発するにおよび、トルーマン米大統領の「台湾海峡中立化」宣言により、台湾と中国の関係は完全に分離したのである。

    国民党政権は台湾移転を前にした一九四八年四月に、台湾の土地改革つまり「三七五減租」を断行した。これは米国の援助で成立した「中国農村復興連合委員会」の協力と、日本で土地改革の実務にたずさわったことのある、米国務省のウォルフ・レジンスキーを顧問に迎え、その指導のもとで進められたものである。「三七五減租」は従来、地主は小作人から収穫物のおよそ五〇%の小作料を取っていたが、これを三七・五%以下に引き下げさせたものである。

    さらに国民党政権の台湾移転後の一九五一年六月に、「自作農」を育成するための「台湾省放領公有地扶植自耕農実施弁法」を布告し、公有地および公営企業の所有する土地で、現に耕作している農民にその土地を払い下げた。これがいわゆる「公地放領」である。耕作農民に土地を払い下げる条件としては、土地の年間収穫物の二・五倍の価格を代償とする、一〇年間の分割払い、年間の償還金額と地租の合計を、年間の収穫物価格の三七・五%以内とする、ことが決められている。

    つづいて一九五三年一月には、「実施耕者有其田条例」を布告した。この「耕者有其田」とは、耕す者がその土地をもつというもので、地主から土地を取り上げて小作人に払い下げる、土地改革のなかでも革命的なものであった。その方法は、地主には田三甲(一甲は約九七〇〇平方メートル)と、畑六甲の保留を認める、地主の保留地以外は、すべて政府が買上げて、現に耕作している小作人に払い下げる、地主から買上げる土地の価格は、「公地放領」と同じく年間収穫物の二・五倍とする、地主への土地代金の支払いは、七〇%を米などの実物債券で一〇年間の分割払い、三〇%を公営企業の株式とする、払い下げを受けて自作農となった農民は、米などの実物を一〇年間に分割して政府に支払う、というものであった。

    「三七五減租」「公地放領」「耕者有其田」の一連の土地改革は、国民党政権にとって、まさに「元手いらず」の改革であった。それがほとんど地主の抵抗なくして実現できたのは、「二・二八事件」以後、ほぼ強権政治体制が整っていたからで、つまり「鉄砲で口を封じた」にひとしい。しかも「公地放領」のための土地も、地主に支払う公営企業の株式も、「敵産」として日本から引き継いだものであった。

    この「元手いらず」の土地改革は、国民党政権の安定および経済再建に大きく寄与するものとなった。まず政治的には、多くの台湾農民を自作農に、いい換えれば小作人から土地の所有者にしたことで、人心の懐柔に成果があった、地主層に集中していた知識人の経済力を低下させ、抵抗する勢力を弱体化させた、農民が土地代金として納付する米などにより、政権の移転に同行した官吏や軍人、その家族らの主食を確保できた、ことがある。経済的には、地主に対する補償として、「四大公司」つまり台湾水泥(セメント)、台湾紙業、台湾工砿、台湾農林、の四つの公営会社の株式が支払われたが、その直前に経理操作で帳簿上、会社の資本金と株式を九倍にすることで、地主が手にする株式の実質的な価値を九分の一に減らし、各公司とも三分の一の株式を保留して、公司の経営権を確保した、地主である農業資本家を工業資本家に転化させることで、工業化の促進に役立った、農民の購買力の向上により消費経済が活性化した、ことが挙げられる。

    農民への収奪

     国民党政権は土地改革で農民に恩恵をほどこす一方、農民から収奪も行なった。接収早々の一九四五年十月に、かつての台湾総督府食糧局や食糧営団などを「台湾省糧食局」に統合して、軍や官吏とその家族らの食糧の確保と、インフレによる損失を農民に転嫁するため、一九四六年の第二期の収穫時から、地租を物納とした。このとき、一元はモミ八・五キロとして換算された。また、 一九四七年七月から、政府による強制的な買上げが始まり、その価格は市場価格の半額程度であった。

    一九四八年九月には、化学肥料と米穀の交換制度が導入された。化学肥料は公営の台湾肥料公司の独占生産と、行政院に属する中央信託局の独占輸入のもとで、農民は一対一の比率で、化学肥料と米を交換させられた。農民がこうむる不等価交換による損失は、たとえば一九五二年当時の、米一キロは一・九元であるのに対し、化学肥料は〇・九元であり、略奪に近いものであった。この差はその後さらに拡大し、一九六〇年には米の四・一元に対し、化学肥料は一・五元であった。

    台湾はオランダ統治時代から、砂糖の輸出で知られる。国民党政権は台湾を領有してから、日本の製糖会社を接収して、公営の台湾糖業公司とした。そしてこの台湾糖業を通じて、砂糖キビ栽培農民を「分糖制」で収奪した。独占的に砂糖キビを砂糖に加工する台湾糖業は、加工賃として製品の五〇%を受け取り、その上に砂糖キビの収穫費、運搬費、立替金利息の名目で、さらに一〇%を徴収し、砂糖キビ栽培農民が実際に手にするのは製品の四〇%に過ぎなかった。そればかりか台湾糖業は、製品の統一管理と統一販売を理由に二〇%を、国際価格よりも低い価格で強制的に買い上げた。したがって砂糖キビ栽培農民の手に残され、自由に販売できる砂糖は二〇%のみであった。これが悪名高い「分糖制」の実態である。

    このような農民への収奪は、土地改革で与えた利益を吐きださせるものであった。一九六〇年代の高度成長を経て、台湾の工業化が進む一九七〇年代初頭にいたり、農村と都市の経済格差が開く一方となり、農村の過剰労働人口の都市への流入は、農業の不振をさらに深めさせた。このような背景もあって、 一九七三年には米と化学肥料の不等価交換によるバーター方式が廃止され、米の最低保障買付価格制度が実施された。それでも農業の不振はやまず、ついに一九七八年には、主食の米の転作と減反政策が実施された。

    一九七五年頃の台湾の人口はすでに一六〇〇万を超えており、人口が増加しているなかでの米の転作奨励と減反実施には、米国からの小麦の大量輸入という事情もある。米国は一九五一年から台湾に対して軍事援助と経済援助を行なっており、そのなかには米国の余剰農産物の小麦の提供も含まれていた。その後、一九六五年に援助が打ち切られたのちも、米の生産コストが高いことと、対米輸出の黒字を削減する必要から、台湾は米国の小麦を輸入してきた。これが台湾の米作農業に大きな影響をおよぼすと同時に、台湾人の食習慣を変え、パンや饅頭(マントウ)など小麦食品が嗜好されるようになった。

    経済発展の要因

    国民党政権が日本から台湾を接収した直後から、朝鮮戦争勃発までの約五年間、台湾経済は混乱をきわめた。しかし、朝鮮戦争を機にしての「台湾海峡中立化」により、台湾と中国の関係が断たれたことで、台湾は疲弊した中国経済の桎梏かう開放され、国民党政権は台湾の経済再建と復興に専念することができた。そして「奇跡」といわれるほどの経済成長を成し遂げたが、それにはいくつかの要因があった。

    まず指摘したいのは、肥沃な土地と勤勉な住民である。

    農業が経済の中心であった時代には、台湾は「一年の収穫で三年間暮らせた」といわれたように、豊かな土地と自然環境にめぐまれている。また、住民の絶対多数は中国からの移住民の子孫であり、国家や政府の保護を期待できず、みずからの努力と才覚で生きるしかない移民ゆえの気風が、勤勉と倹約の精神を培ってきた。加えて「二・二八事件」の虐殺と粛清が、国民党政権支配下の台湾人を、政治離れと経済志向に導いた。その結果、台湾経済はいまや台湾人の経営する中小企業が支えている。

    日本から受け継いだ「遺産」もある。

    台湾は日本の五〇年におよぶ植民地支配を受けたが、「植民地下の近代化」も果たしている。一九二五年十月に催された「台湾始政四〇周年記念大博覧会」を機に、台湾を視察した国民党政権支配下の福建省と厦門市の幹部が、『台湾考察報告』のなかで、台湾の状況を絶賛している。日本帝国主義の厳しい批判者によるこの報告書は、台湾の「植民地下の近代化」に対する、もっとも注目に値いする「証言」といえる。日本が放棄した当時の台湾は、すでに工業化社会の戸口に到達しており、太平洋戦争中の米軍による爆撃で、若干の破壊はあったが、五〇年間に築かれたインフラの整備、産業の振興と教育の普及など、同じように植民地支配を受けてのちに独立した、開発途上国の比肩できるところではない。

    米国の援助と日本の借款供与も大きく資している。

    米国は一九五一年から援助を開始、年に約一億米ドル相当を、一九六五年までの一五年間つづけ、総額にして約一五億米ドルを提供した。援助の内容は、軍事援助が半分以上を占めており、その他は余剰農産物の提供をはじめ、赤字財政の補填、工業の設備投資、農業の振興などである。時期によって若干の違いはあるが、米国の援助は台湾の国民総生産(GNP) の、およそ五ないし一〇%を占めていた。これは戦後の台湾経済に、「輸血」効果をもたらしている。米国の援助が一九六五年六月に終わるため、国民党政権は四月に日本政府と、 一億五〇〇〇万米ドル相当の円借款の協定を結んだ。その内訳は、一億米ドル相当を日本輸出入銀行が年利五・七%、返済期間一五年で、残る五〇〇〇万米ドル相当を年利三・五%、返済期間二〇年で日本海外経済協力基金が提供した。この円借款は金額においては米国の援助と比較にならないが、援助の停止を補うと同時に、台湾経済と日本経済の緊密化をもたらすものとなった。

    国民党政権の危機意識も見逃せない。

    台湾に逃れ、「背水の陣」に立つ国民党政権は、遮二無二生き残るための方途を摸索した。米国政府にはいったん見放されたが、朝鮮戦争の勃発で再び米国の軍事と経済の援助を得ることになったものの、いつまでもつづく保証はなく、台湾海峡をはさむ対岸の中国の脅威に備えるには、政治の安定と経済の発展を急ぐしかなかった。これは「唯一の中国」「中国の正統政府」の虚構を維持する上でも必要であった。このような危機意識が、強権政治を招来させた弊害は否めないが、経済の発展を促したことも事実である。危機意識が生みだした、もっとも成功した例に一九六五年に創設した、保税加工区である「加工出口区」(加工輸出区)がある。加工輸出区では税制の優遇、行政手続きの簡素化、為替管理の緩和と国外送金の保証などの優遇措置がとられ、輸出向けの製品を生産するもので、外貨の獲得、国民の雇用機会の増大、外国資本の導入と技術の移転、国内産業の育成などに大きく寄与した。台湾の加工輸出区はその後、中国を含め多くの開発途上国の手本となっている。

    文化大革命も少なからず影響をおよばしている。

    「台湾解放」の機会を虎視眈々と狙っていた中国政府・中共政権は、一九六六年からいわゆる「一〇年の内乱」である文化大革命のあらしに翻弄され、台湾をかえりみる余裕をもたなかった。文化大革命は台湾人はもとより、外省人にも中共政権への認識を新たにさせるものとなったが、台湾経済にとっても影響をおよぼし、この間に著しい成長を遂げただけでなく、一九七三年からはインフラの整備と重工業化の「一〇大建設」も着工されている。交通・輸送面では新台北国際空港、南北高速道路、鉄道の電化と複線化、台中と蘇澳の港湾の拡張があり、動力の確保では原子力発電所の建設、重工業は一貫製鉄と石油化学、造船を中心に推進され、その総投資額は五八億米ドルにおよんでいる。この「一〇大建設」の推進は、国民党政権が台湾に根を下ろし、腰をすえて「台湾の建設」に取り組む決意の現れともいわれている。それはさておき、「十大建設」が、台湾経済のその後の成長に寄与しているのは確かである。

    外国資本の導入も要因の一つである。

    戦後の台湾経済発展には、外国人および在外中国人である華僑の投資も貢献している。国民党政権は一九五四年に「外国人投資条例」、翌年に「華僑帰国投資条例」、さらに一九六〇年には「投資奨励条例」を施行して、外国資本の招来を奨励した。これらの条例は外国人や華僑の投資に、税制上および工業団地の取得についての優遇措置を保証している。そのため一九六〇年代から、外国資本の参入が急速に増加した。  

    一九五二年から九〇年までの、外国人の投資は三五八六件、一一億二九七八万米ドル、華僑の投資は二一八七件、一億九五三八万米ドル、合計五七七三件で、一三億二五一六万米ドルになっている。外国人の投資では、日本が三二・六%で第一位、米国の二一・九%、ヨーロッパ諸国の一三%、香港の七・三%とつづく。一般的に日本の投資は、台湾企業との合弁が多く、製品は輸出のほか台湾でも販売された。米国の場合、ほとんどが合弁の形態をとらず、製品もすべて輸出または米国向けであった。華僑の場合は規模が小さく、サービス業が中心で、ハイテク産業への投資はほとんどない。日本や欧米の投資は台湾産業に技術移転の効果をもたらし、華僑資本は台湾の企業の競争力を強化させている。そしてともに台湾製品の海外市場の開拓に、先導的な役割を果たしてきた。

    経済発展の軌跡

    幣制改革のデノミネーションの断行と、中国と台湾の関係を断ち切ったことにより、悪性インフレはようやく鎮静化し、米国の援助のもとで一九五二年から、第一次「四ヵ年経済計画」が推進された。その結果、一九五〇年代の農業生産は、日本統治下の最高水準にまで回復した。工業においては、軽工業を中心とする輸入代替工業が軌道に乗り、発展して行く。

    一九五〇年代の経済状況を見ると、年間の平均成長率は、GNP 八・三%、農業六・四%、工業一一・五%である。農産物を中心とする輸出成長率は二〇%に達しており、農業が工業化の「産婆役」を果たしている。国際貿易収支は赤字つづきであったが、米国の援助で補填している。物価の上昇率は八・六%で、これまでの危機的な物価上昇に比べて、相当に緩和されている。概していえば、一九五〇年代は一九六〇年代の高度経済成長の準備期間といえよう。

    一九六〇年代になると、年間の農業生産は四・六%の成長率にとどまり、工業生産は一五・九%、輸出は三二・九%の成長率をあげた。GNP は九・二%の持続的な高度成長を見せ、物価の上昇率は四・九%の低水準となり、いわゆる「インフレなき高度成長」を達成した。この好景気を背景に、一九六八年には一〇〇万の農村の余剰労働力が、加工輸出区などの工業生産に投入され完全雇用の状況にあった。低賃金で優れた労働力は、労働集約型輸出加工業の発展に資して、工業製品の輸出産業は迅速に成長した。この頃、外国資本主導の電気器具と電子製品、および紡績衣料は二大輸出製品として花形の位置を占めた。総じて一九六〇年代の台湾経済は、外国資本、安い労働力、輸出志向のもとで工業化と輸出が促され、輸入代替工業から加工輸出工業に転換して、高度な経済成長を達成した。

    一九七〇年代の経済発展は、基本的には一九六〇年代の延長線上にある。一九七三年には「一〇大建設」が始動し、インフラの整備拡充と重工業化の基幹産業の建設が進められた。一九七三年と七九年の二回の石油危機に見舞われ、経済成長率に大きな振幅が見られた。しかし、石油を輸入して化学繊維やプラスチック製品に加工して輸出する、「加工貿易国」台湾の経済成長に、石油危機は大きな影響をおよぼさなかった。その背景には、産油国とくにサウジアラビアとの友好関係と、円高によるメリット、一九六〇年代後半からつづく、ベトナム戦争の「特需」にめぐまれたことがあった。そのため、一九七〇年代の年間平均の農業生産は四・六%、工業生産は一五・二%の成長率であり、輸出成長率は二八・三%であった。ただし年間平均の GNP成長率は一〇・三%であるのに対し、物価の上昇率は九・五%に達している。概して一九七〇年代は、 一九六〇年代の高度成長の成果を基盤に、輸出志向工業から重工業化へと移行する端緒についたといえよう。

    一九八〇年代の経済成長率は、不安定ながらも成長基調にある。一九七九年は八・五%の成長率であったが、八〇年は七・一%、八一年は五・八%、八二年は四・一%と下降傾向をつづけ、八三年は石油輸出国機構の原油価格引き下げと、米国市場の景気回復により八・七%にまで回復、八四年には一一・六%の二ケタ台に乗った。八五年は米国経済の景気後退により五・六%に急落した。このように台湾経済は米国経済に連動しており、いい換えれば米国のマーケットに大きく依存している。八六年および八七年はドル安と円高の影響で、それぞれ一二・六%と一一・九%の成長率となっている。しかし、米国への貿易黒字が圧力となり、台湾元の大幅な切り上げと、それにともなう賃金の上昇、労働力不足などで、八八年の成長率は七・八%、八九年は七・三%、九〇年は五%と下降線をたどった。一九八〇年代の年間平均成長率は八・三%を維持しているものの、一九八八年以降の成長率の低下傾向は、その後の台湾経済の低迷を予兆するものであった。

    一九八〇年代に特徴的なのは、ハイテク産業の育成に重点がおかれたことである。一九八〇年十二月にはハイテク産業を長期的に育成する工業団地の、「新竹科学工業園区」が操業を開始した。ながらく加工輸出を中心とする経済・産業政策が推進されてきたが、過去の経済成長率の維持と、賃金の上昇と二度にわたる石油危機、労働力不足、環境汚染などが考慮され、「大きい生産効果、大きい潜在市場、高い技術集約度、高い付加価値、省エネルギー、少ない汚染」の原則のもとで、 コンピューター、電子部品、コンピューター・ソフトなどの情報処理産業と、精密機械、農業機械、自動車部品、電気器具などの機械産業が、戦略的な産業として選定され、政策的に奨励された。

    台湾経済の工業化の展開をかえりみれば、一九五〇年代の輸入代替工業化、六〇年代の輸出志向工業化、七〇年代の重工業化、八〇年代のハイテク産業育成の過程をたどり、九〇年代はハイテク産業を軌道に乗せ、技術先進諸国に伍すだけの競争力の確保をめざしている。一九九一年七月からは、八兆二三八二億元(約三〇〇〇億米ドル)規模の「国家建設六ヵ年計画」が実施され、国民所得の引き上げ、産業基盤の強化、各地域の均衡的な発展、国民生活の質的な向上、をめざしている。台湾はすでに一九七〇年代後半には「アジア・NIES(新興工業経済地域)の旗手」として、韓国、香港、シンガポールをリードしており、ハイテク産業化と国家建設六ヵ年計画が実現した暁には、経済先進国の仲間入りを果たすことも期待されている。

    台湾経済の問題点

    一九五二年以後の台湾経済は、「奇跡」といわれるほどの順調な成長をつづけてきた。国民一人あたりの GNPも、それに比例して伸長の一途にあり、一九五〇年当時の五〇米ドルから、一九八八年には六三三三米ドルに達し、世界銀行の定義する、「高所得(六〇〇〇米ドル以上)国家」に連なっている。その後、一人あたりの GNPは一九九二年には一万米ドルの大台にのぼった。経済成長にともない、かつ台湾元の対米ドル・レートの上昇もあって、外貨準備高は一九八〇年代後半から急増し、八六年には四六三億一〇〇〇万米ドル、八七年には七六七億四八〇〇万米ドルに達し、日本やドイツを追うまでになり、「金満国」として注目された。その後も増えつづけ、一九九二年七月以後は八五〇億米ドル台の水準で、「世界一の外貨保有国」の座を維持している。

    しかしながら、順調かのように見える台湾経済に問題がないわけではない。その一つは過度の輸出依存、とりわけ米国のマーケットに対する依存である。

    台湾は一九八〇年代以後、賃金の上昇と国際貿易の停滞、開発途上国の追い上げなどで輸出が低迷し、とくに一九八八年からは著しい。また、台・米貿易の不均衡から、是正を求める米国の圧力が強まり、輸入の自由化、関税引き下げ、サービス産業の開放、知的所有権の保護などの要求を突きつけられ、台湾元の切り上げをやむなくされている。さらに一九八九年には、一般特恵関税(GSP) の適用を取り消されたため、台湾の対米輸出競争力は大きく低下した。これが一九八九年以後の台湾の経済成長率の急速な下降につながっている。米国依存を少しでも改善するため、台湾は製品の輸出先の分散に努め、東西対立の冷戦構造が崩壊した後は、過去の社会主義国家への輸出を本格化させた。しかし到底、かつての米国のマーケットに代わるほどの規模にはない。

    中小企業が経済の担い手であることも問題である。

    台湾は「中小企業王国」といわれ、一九八八年末における中小企業は七七万三五一一社で、企業総数の九七・七二%を占めている。同年末の台湾の人口は約二〇〇〇万、単純計算でも二六人に一人が社長である。中小企業は輸出の主役でもあり、一九八八年の輸出総額は六〇五億八五〇〇万米ドルで、中小企業による輸出はその約六〇%を占めて、三六三億五三〇〇万米ドルに達している。しかし、概して中小企業は、生産性が低い、規模が小さく、資金力が弱い、設備投資や技術革新の余裕がない、同族経営が多く、優秀な人材の確保がむずかしい、株式市場での資金調達が少ない、市場調査能力に欠け、販売力が弱い、などの弱点を抱えている。そしてこれらの弱点は、そのまま台湾経済の弱点ともいえるのである。

    日本の「下請け構造」も深刻な問題である。

    台湾の輸入は、ながらく日本が第一位を占めつづけ、対外貿易赤字も日本が第一位である。一九八九年を例に見ると、日本からの輸入は機械設備が五三%、工業用原料が三四・二%、合わせて約九〇%を占めており、いずれも台湾の輸出製品の加工にとり、不可欠のものである。およそ台湾の輸出製品の部品や原料の八〇%までを日本から輸入しており、台湾の輸出が増大すれば、対日貿易赤字も増大するため、輸出に依存する台湾経済は、まさに日本の「下請け構造」になっている。また、台湾が輸出で得た貿易黒字の大半は、対日貿易赤字を埋めている。対日貿易赤字は、台湾の貿易黒字と運動して年々増大しており、一九九〇年は七六億六〇七一万米ドル、九一年は九六億六九四〇万米ドル、九二年は一二九億米ドルに達した。ちなみに、九二年の対米貿易黒字は七八億米ドルである。日本の通産省は台湾に対する貿易黒字を縮小するために、台湾にハイテク産業の移転を推進し、製品を日本に還流させる「ブーメラン効果」を期待している。しかしながら、ほぼ固定化したこの「下請け構造」は、そう容易には改善されそうにない。

     外交的な孤立の影響も大きな問題である。

    国民党政権は「中華民国(台湾)は唯一の中国」「中華民国政府(国民党政権)は中国の正統政府」の虚構を堅持している。一九七一年十月に中華人民共和国(中国)が国連に復帰したのを契機に、日本を含め国際社会のほとんどの国々が、なだれを打ったように中国と国交を結び、中華民国(台湾)と国交を断絶した。もっとも頼りにしていた米国も、一九七九年一月に中国と国交を正常化し、台湾と断交した。台湾と断交した国々の多くは、台湾との間に非政府間の関係を維持しており、例えば日本の場合は、台湾に「交流協会」の事務所を、台湾は日本に「亜東関係協会」の代表処をおいて、実質的な交流を行なっている。しかし、経済活動の多くを国際貿易に依存している台湾にとって、日本や米国はともかく、国交がない国との経済交流には、多くの障害がつきまとう。輸出先への渡航ビザを取得するのに、どれほどの苦難を強いられるかは推して知るべしであろう。一九七一年以来のこの二〇余年間に、台湾はこのような悪条件のもとで国際貿易の推進に努め、世界第一三位の貿易国家に成長したことは賞賛に値いする。とはいえ外交的な孤立がつづく限り、台湾の経済はその影響からまぬがれない。

    対中国貿易の増大傾向も将来に問題をはらむ。

    一九八〇年代にいたり中国との敵対関係は改善に向かい、一九八七年十一月からは、台湾住民の中国旅行ができるようになった。これにともない中国への投資も活発化し、香港を介しての中継貿易は年を追って拡大されている。一九八七年から九〇年までの四年間に、台湾と中国の貿易は急増傾向にあり、台湾の対中国輸出の年間平均増加率は四四・一%、中国のそれは五四・八%である。一九九〇年の往復の貿易額は四〇億米ドルを突破した。九一年のそれは五七億九〇〇〇万米ドルに達し、そのうち台湾の対中輸出は四六億六〇〇〇万米ドル、対中輸入は一一億三〇〇〇万米ドルになっている。対中貿易は圧倒的に台湾の出超である。 一九九二年の香港経由の対中貿易黒字は、 一三六億四〇〇〇万米ドルに激増しており、この黒字がなければ同年における台湾の貿易収支は赤字になったはずである。このような状況を見る限り、もはや中国に対する「交渉せず、妥協せず、接触せず」の「三不政策」は意味を失ったも同然である。しかし、米国で失った台湾製品のマーケットとして、しかも厳しい条件もない中国のマーケットは魅力的ではあるが、中国政府は「台湾は中国の一部」であり、いずれは「統一」すると主張している。このような中国のマーケットに過度に依存することは、台湾経済が中国に左右され、中国経済に呑み込まれる危険性をはらんでいる。明らかに中国政府には、台湾経済を中国依存に仕向ける意図が窺え、当面は経済的な緊密化をはかり、将来的には政治的な「統一」をめざしている。中国マーケットの拡大に、喜んでばかりはいられない。

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