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第十章 奇跡の経済発展 幣制改革と土地改革 「流亡政権」といわれる国民党政権が、台湾で生きのびるには、政治の安定と経済の再建を急ぐしかなかった。そのため国民党政権は、一党独裁の強権政治体制を構築する一方、経済の再建と復興を最優先させた。これがいわゆる「開発独裁」である。そして経済の再建と復興にとどまらず、「奇跡」といわれるほどの成長を成し遂げた今日、台湾の「開発独裁」は「台湾経験」(台湾モデル)として、開発途上国の範とさえされている。 国民党政権に接収された当時の台湾は、行政長官公署の人為的な失政に加え、中国における国共内戦の影響により経済的な混乱を深めており、ほどなくして危機的な状況を迎えた。なかでもインフレの昂進は凄まじく、一九四五年から五〇年までの約五年間に、物価の上昇は一万倍にも達している。市民生活は窮乏し、加速度的なインフレへの対処として、月のはじめに決める月給は、月末にはその何分の一の価値しかもたなかったほどである。日々刻々と進むインフレは、経済活動を混乱させ、市民生活を容赦なく圧迫した。その上に、国民党政権とともに官吏や軍人、その一部の家族ら約一五〇万人が台湾に移り住み、消費人口は一気に膨れ上がり、ますます台湾経済を窮地に陥れた。 中国共産党関係者の潜入を防ぎ、かつ人口の過剰流入を抑制するため、警備総司令部は一九四九年二月から港や河口を封鎖、海岸線も管制下におき、許可された者以外の台湾入境を認めなかった。さらに同年六月十五日には、中国と台湾の貨幣の関係を断ち、従来の四万台湾元を一新台湾元(NT$、これ以後の台湾元はすべて新台湾元)とする、デノミネーションを断行した。このいたって手荒な幣制改革は、台湾人に苛酷な犠牲を強いるものではあったが、中国における天井知らずのインフレの影響を遮断するものともなり、台湾貨幣ひいては経済の安定には必要な措置であった。翌一九五〇年六月に朝鮮戦争が勃発するにおよび、トルーマン米大統領の「台湾海峡中立化」宣言により、台湾と中国の関係は完全に分離したのである。
さらに国民党政権の台湾移転後の一九五一年六月に、「自作農」を育成するための「台湾省放領公有地扶植自耕農実施弁法」を布告し、公有地および公営企業の所有する土地で、現に耕作している農民にその土地を払い下げた。これがいわゆる「公地放領」である。耕作農民に土地を払い下げる条件としては、①土地の年間収穫物の二・五倍の価格を代償とする、②一〇年間の分割払い、③年間の償還金額と地租の合計を、年間の収穫物価格の三七・五%以内とする、ことが決められている。
「三七五減租」「公地放領」「耕者有其田」の一連の土地改革は、国民党政権にとって、まさに「元手いらず」の改革であった。それがほとんど地主の抵抗なくして実現できたのは、「二・二八事件」以後、ほぼ強権政治体制が整っていたからで、つまり「鉄砲で口を封じた」にひとしい。しかも「公地放領」のための土地も、地主に支払う公営企業の株式も、「敵産」として日本から引き継いだものであった。
農民への収奪
一九四八年九月には、化学肥料と米穀の交換制度が導入された。化学肥料は公営の台湾肥料公司の独占生産と、行政院に属する中央信託局の独占輸入のもとで、農民は一対一の比率で、化学肥料と米を交換させられた。農民がこうむる不等価交換による損失は、たとえば一九五二年当時の、米一キロは一・九元であるのに対し、化学肥料は〇・九元であり、略奪に近いものであった。この差はその後さらに拡大し、一九六〇年には米の四・一元に対し、化学肥料は一・五元であった。
このような農民への収奪は、土地改革で与えた利益を吐きださせるものであった。一九六〇年代の高度成長を経て、台湾の工業化が進む一九七〇年代初頭にいたり、農村と都市の経済格差が開く一方となり、農村の過剰労働人口の都市への流入は、農業の不振をさらに深めさせた。このような背景もあって、 一九七三年には米と化学肥料の不等価交換によるバーター方式が廃止され、米の最低保障買付価格制度が実施された。それでも農業の不振はやまず、ついに一九七八年には、主食の米の転作と減反政策が実施された。 一九七五年頃の台湾の人口はすでに一六〇〇万を超えており、人口が増加しているなかでの米の転作奨励と減反実施には、米国からの小麦の大量輸入という事情もある。米国は一九五一年から台湾に対して軍事援助と経済援助を行なっており、そのなかには米国の余剰農産物の小麦の提供も含まれていた。その後、一九六五年に援助が打ち切られたのちも、米の生産コストが高いことと、対米輸出の黒字を削減する必要から、台湾は米国の小麦を輸入してきた。これが台湾の米作農業に大きな影響をおよぼすと同時に、台湾人の食習慣を変え、パンや饅頭(マントウ)など小麦食品が嗜好されるようになった。 経済発展の要因 国民党政権が日本から台湾を接収した直後から、朝鮮戦争勃発までの約五年間、台湾経済は混乱をきわめた。しかし、朝鮮戦争を機にしての「台湾海峡中立化」により、台湾と中国の関係が断たれたことで、台湾は疲弊した中国経済の桎梏かう開放され、国民党政権は台湾の経済再建と復興に専念することができた。そして「奇跡」といわれるほどの経済成長を成し遂げたが、それにはいくつかの要因があった。 まず指摘したいのは、肥沃な土地と勤勉な住民である。
日本から受け継いだ「遺産」もある。
米国の援助と日本の借款供与も大きく資している。 米国は一九五一年から援助を開始、年に約一億米ドル相当を、一九六五年までの一五年間つづけ、総額にして約一五億米ドルを提供した。援助の内容は、軍事援助が半分以上を占めており、その他は余剰農産物の提供をはじめ、赤字財政の補填、工業の設備投資、農業の振興などである。時期によって若干の違いはあるが、米国の援助は台湾の国民総生産(GNP) の、およそ五ないし一〇%を占めていた。これは戦後の台湾経済に、「輸血」効果をもたらしている。米国の援助が一九六五年六月に終わるため、国民党政権は四月に日本政府と、 一億五〇〇〇万米ドル相当の円借款の協定を結んだ。その内訳は、一億米ドル相当を日本輸出入銀行が年利五・七%、返済期間一五年で、残る五〇〇〇万米ドル相当を年利三・五%、返済期間二〇年で日本海外経済協力基金が提供した。この円借款は金額においては米国の援助と比較にならないが、援助の停止を補うと同時に、台湾経済と日本経済の緊密化をもたらすものとなった。 国民党政権の危機意識も見逃せない。 台湾に逃れ、「背水の陣」に立つ国民党政権は、遮二無二生き残るための方途を摸索した。米国政府にはいったん見放されたが、朝鮮戦争の勃発で再び米国の軍事と経済の援助を得ることになったものの、いつまでもつづく保証はなく、台湾海峡をはさむ対岸の中国の脅威に備えるには、政治の安定と経済の発展を急ぐしかなかった。これは「唯一の中国」「中国の正統政府」の虚構を維持する上でも必要であった。このような危機意識が、強権政治を招来させた弊害は否めないが、経済の発展を促したことも事実である。危機意識が生みだした、もっとも成功した 文化大革命も少なからず影響をおよばしている。
外国資本の導入も要因の一つである。
一九五二年から九〇年までの、外国人の投資は三五八六件、一一億二九七八万米ドル、華僑の投資は二一八七件、一億九五三八万米ドル、合計五七七三件で、一三億二五一六万米ドルになっている。外国人の投資では、日本が三二・六%で第一位、米国の二一・九%、ヨーロッパ諸国の一三%、香港の七・三%とつづく。一般的に日本の投資は、台湾企業との合弁が多く、製品は輸出のほか台湾でも販売された。米国の場合、ほとんどが合弁の形態をとらず、製品もすべて輸出または米国向けであった。華僑の場合は規模が小さく、サービス業が中心で、ハイテク産業への投資はほとんどない。日本や欧米の投資は台湾産業に技術移転の効果をもたらし、華僑資本は台湾の企業の競争力を強化させている。そしてともに台湾製品の海外市場の開拓に、先導的な役割を果たしてきた。 経済発展の軌跡 幣制改革のデノミネーションの断行と、中国と台湾の関係を断ち切ったことにより、悪性インフレはようやく鎮静化し、米国の援助のもとで一九五二年から、第一次「四ヵ年経済計画」が推進された。その結果、一九五〇年代の農業生産は、日本統治下の最高水準にまで回復した。工業においては、軽工業を中心とする輸入代替工業が軌道に乗り、発展して行く。 一九五〇年代の経済状況を見ると、年間の平均成長率は、GNP 八・三%、農業六・四%、工業一一・五%である。農産物を中心とする輸出成長率は二〇%に達しており、農業が工業化の「産婆役」を果たしている。国際貿易収支は赤字つづきであったが、米国の援助で補填している。物価の上昇率は八・六%で、これまでの危機的な物価上昇に比べて、相当に緩和されている。概していえば、一九五〇年代は一九六〇年代の高度経済成長の準備期間といえよう。 一九六〇年代になると、年間の農業生産は四・六%の成長率にとどまり、工業生産は一五・九%、輸出は三二・九%の成長率をあげた。GNP は九・二%の持続的な高度成長を見せ、物価の上昇率は四・九%の低水準となり、いわゆる「インフレなき高度成長」を達成した。この好景気を背景に、一九六八年には一〇〇万の農村の余剰労働力が、加工輸出区などの工業生産に投入され完全雇用の状況にあった。低賃金で優れた労働力は、労働集約型輸出加工業の発展に資して、工業製品の輸出産業は迅速に成長した。この頃、外国資本主導の電気器具と電子製品、および紡績衣料は二大輸出製品として花形の位置を占めた。総じて一九六〇年代の台湾経済は、外国資本、安い労働力、輸出志向のもとで工業化と輸出が促され、輸入代替工業から加工輸出工業に転換して、高度な経済成長を達成した。
台湾経済の工業化の展開をかえりみれば、一九五〇年代の輸入代替工業化、六〇年代の輸出志向工業化、七〇年代の重工業化、八〇年代のハイテク産業育成の過程をたどり、九〇年代はハイテク産業を軌道に乗せ、技術先進諸国に伍すだけの競争力の確保をめざしている。一九九一年七月からは、八兆二三八二億元(約三〇〇〇億米ドル)規模の「国家建設六ヵ年計画」が実施され、①国民所得の引き上げ、②産業基盤の強化、③各地域の均衡的な発展、④国民生活の質的な向上、をめざしている。台湾はすでに一九七〇年代後半には「アジア・NIES(新興工業経済地域)の旗手」として、韓国、香港、シンガポールをリードしており、ハイテク産業化と国家建設六ヵ年計画が実現した暁には、経済先進国の仲間入りを果たすことも期待されている。 台湾経済の問題点 一九五二年以後の台湾経済は、「奇跡」といわれるほどの順調な成長をつづけてきた。国民一人あたりの GNPも、それに比例して伸長の一途にあり、一九五〇年当時の五〇米ドルから、一九八八年には六三三三米ドルに達し、世界銀行の定義する、「高所得(六〇〇〇米ドル以上)国家」に連なっている。その後、一人あたりの GNPは一九九二年には一万米ドルの大台にのぼった。経済成長にともない、かつ台湾元の対米ドル・レートの上昇もあって、外貨準備高は一九八〇年代後半から急増し、八六年には四六三億一〇〇〇万米ドル、八七年には七六七億四八〇〇万米ドルに達し、日本やドイツを追うまでになり、「金満国」として注目された。その後も増えつづけ、一九九二年七月以後は八五〇億米ドル台の水準で、「世界一の外貨保有国」の座を維持している。 しかしながら、順調かのように見える台湾経済に問題がないわけではない。その一つは過度の輸出依存、とりわけ米国のマーケットに対する依存である。 台湾は一九八〇年代以後、賃金の上昇と国際貿易の停滞、開発途上国の追い上げなどで輸出が低迷し、とくに一九八八年からは著しい。また、台・米貿易の不均衡から、是正を求める米国の圧力が強まり、輸入の自由化、関税引き下げ、サービス産業の開放、知的所有権の保護などの要求を突きつけられ、台湾元の切り上げをやむなくされている。さらに一九八九年には、一般特恵関税(GSP) の適用を取り消されたため、台湾の対米輸出競争力は大きく低下した。これが一九八九年以後の台湾の経済成長率の急速な下降につながっている。米国依存を少しでも改善するため、台湾は製品の輸出先の分散に努め、東西対立の冷戦構造が崩壊した後は、過去の社会主義国家への輸出を本格化させた。しかし到底、かつての米国のマーケットに代わるほどの規模にはない。 中小企業が経済の担い手であることも問題である。 台湾は「中小企業王国」といわれ、一九八八年末における中小企業は七七万三五一一社で、企業総数の九七・七二%を占めている。同年末の台湾の人口は約二〇〇〇万、単純計算でも二六人に一人が社長である。中小企業は輸出の主役でもあり、一九八八年の輸出総額は六〇五億八五〇〇万米ドルで、中小企業による輸出はその約六〇%を占めて、三六三億五三〇〇万米ドルに達している。しかし、概して中小企業は、①生産性が低い、②規模が小さく、資金力が弱い、③設備投資や技術革新の余裕がない、④同族経営が多く、優秀な人材の確保がむずかしい、⑤株式市場での資金調達が少ない、⑥市場調査能力に欠け、販売力が弱い、などの弱点を抱えている。そしてこれらの弱点は、そのまま台湾経済の弱点ともいえるのである。 日本の「下請け構造」も深刻な問題である。 台湾の輸入は、ながらく日本が第一位を占めつづけ、対外貿易赤字も日本が第一位である。一九八九年を例に見ると、日本からの輸入は機械設備が五三%、工業用原料が三四・二%、合わせて約九〇%を占めており、いずれも台湾の輸出製品の加工にとり、不可欠のものである。およそ台湾の輸出製品の部品や原料の八〇%までを日本から輸入しており、台湾の輸出が増大すれば、対日貿易赤字も増大するため、輸出に依存する台湾経済は、まさに日本の「下請け構造」になっている。また、台湾が輸出で得た貿易黒字の大半は、対日貿易赤字を埋めている。対日貿易赤字は、台湾の貿易黒字と運動して年々増大しており、一九九〇年は七六億六〇七一万米ドル、九一年は九六億六九四〇万米ドル、九二年は一二九億米ドルに達した。ちなみに、九二年の対米貿易黒字は七八億米ドルである。日本の通産省は台湾に対する貿易黒字を縮小するために、台湾にハイテク産業の移転を推進し、製品を日本に還流させる「ブーメラン効果」を期待している。しかしながら、ほぼ固定化したこの「下請け構造」は、そう容易には改善されそうにない。 外交的な孤立の影響も大きな問題である。
対中国貿易の増大傾向も将来に問題をはらむ。 一九八〇年代にいたり中国との敵対関係は改善に向かい、一九八七年十一月からは、台湾住民の中国旅行ができるようになった。これにともない中国への投資も活発化し、香港を介しての中継貿易は年を追って拡大されている。一九八七年から九〇年までの四年間に、台湾と中国の貿易は急増傾向にあり、台湾の対中国輸出の年間平均増加率は四四・一%、中国のそれは五四・八%である。一九九〇年の往復の貿易額は四〇億米ドルを突破した。九一年のそれは五七億九〇〇〇万米ドルに達し、そのうち台湾の対中輸出は四六億六〇〇〇万米ドル、対中輸入は一一億三〇〇〇万米ドルになっている。対中貿易は圧倒的に台湾の出超である。 一九九二年の香港経由の対中貿易黒字は、 一三六億四〇〇〇万米ドルに激増しており、この黒字がなければ同年における台湾の貿易収支は赤字になったはずである。このような状況を見る限り、もはや中国に対する「交渉せず、妥協せず、接触せず」の「三不政策」は意味を失ったも同然である。しかし、米国で失った台湾製品のマーケットとして、しかも厳しい条件もない中国のマーケットは魅力的ではあるが、中国政府は「台湾は中国の一部」であり、いずれは「統一」すると主張している。このような中国のマーケットに過度に依存することは、台湾経済が中国に左右され、中国経済に呑み込まれる危険性をはらんでいる。明らかに中国政府には、台湾経済を中国依存に仕向ける意図が窺え、当面は経済的な緊密化をはかり、将来的には政治的な「統一」をめざしている。中国マーケットの拡大に、喜んでばかりはいられない。 |