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第九章 国民党の強権政治 国民党政権の台湾移転 中国・南京の国民党政権は一九四七年四月二十二日、陳儀行政長官を免職するとともに長官公署を撤廃し、「台湾省政府」を設置、米国に受けのよい外交官の魏道明を台湾省政府主席に任命した。魏道明主席は五月十六日に就任し、翌日、戒厳令の解除と「二・二八事件」関係者の逮捕の中止を声明した。しかしこの声明に反して、事件関係者の逮捕と処刑は依然としてつづけられた。 魏道明主席は台湾人を懐柔するため、台湾省政府委員の一四名中七名に台湾人を任命した。また、省政府高官にも台湾人を起用したが、それは満州国における「内面指導」とさして変わるところはなかった。つまり、満州人の配下にある日本人が実権を牛耳ったように、台湾人高官のもとで、部下たる外省人が実権を掌握したのである。
朝鮮戦争と米国の軍事保護 国民党政権に追い撃ちをかけるかのように、米国のトルーマン大統領は一九五〇年一月五日に、「台湾海峡不介入」を声明した。つまり中国の共産党軍(中国軍)の台湾侵攻に、米国は関与しないことを意味する。この危機に際して蒋介石は三月に「総統復職」を声明し、陳誠を行政院長(首相に相当)に任命した。ついでながら、このときに元総督府を総統府として、今日にいたっている。
一九五一年一月には、米国政府は国民党政権に対する軍事援助を復活し、翌二月十日に「米華共同防衛相互援助協定」に調印、台湾に軍事顧問団を派遣し、五月には執務が開始された。また一九五四年十二月には「米華共同防衛条約」を締結した。その後、国際情勢の変化により、一九七九年一月の米中国交正常化を境に、台湾と米国の国交はなくなったが、米国は同年四月十日に「米華共同防衛条約」に代わる、国内法の「台湾関係法」を制定して、台湾を「政治的な実体」と認め、実質的な関係を維持し、台湾の防衛に必要な武器を有償で提供しつづけてきた。米国政府と議会は、「台湾は中国の一部」「台湾問題は内政問題」であると主張する中国政府に対し、「台湾問題は平和的に解決しなければならない」と、「警告」ともとれるような声明を重ねて発表している。要するに、国民党政権は米国の保護下の台湾で生き延び、体制づくりに専念することができたのである。 動員戡乱時期臨時条款 蒋介石が第一期国民大会で総統に選出された当時、就任の条件として、共産党の「反乱」の鎮圧には、憲法を改正して総統に緊急の処分権を認めるか、あるいは臨時に憲法に優越する法律を制定するかを要求した。結局、蒋介石の要求を容れ、憲法に優越した有効期間を二年とする、「動員戡乱時期臨時条款」(以下「臨時条款」とする)が制定され、 一九四八年五月十日に施行された。「動員戡乱時期」とは、「反乱団体」である中国政府・中共政権を「戡乱」(平定、鎮圧)するまでの、国家総動員の時期をいう。したがって「臨時条款」は時限立法であり、有効期間を二年としたのは、それまでに「反乱」を平定できると踏んでいたからにほかならない。 「臨時条款」は、中国共産党の「反乱」のおよばない台湾にも施行された。国民党政権の台湾移転後の一九五〇年五月に、「臨時条款」は期限満了となったが、「反乱」の平定が実現していないことを理由に延長され、 一九九一年五月に「動員戡乱時期」が終了するまで、四三年間にわたり施行されている。つまり国民党政権は、米国の保護下の台湾を非常時の「動員戡乱時期」体制におき、「臨時条款」で統治したのである。この「臨時条款」を補強するのが戒厳令であり、また「動員戡乱時期」を冠した約一六〇もの法律や条例であった。いいかえれば国民党政権は中国共産党の「反乱」を口実に、台湾における強権政治を正当化し、統治体制の安定と強化をはかったのである。 「臨時条款」は改正を重ね、総統ならびに第一期の国会議員の終身化を可能にし、総統に「緊急処分権」を与えている。中華民国憲法は「五権憲法」とされ、国民大会に総統の選出と憲法の改正権を付与し、総統のもとに中央政府として五つの機関、つまり立法院(法律制定と改廃、ただし国政調査権はない)、司法院(憲法解釈と各級裁判所を管轄)、行政院(内閣に相当)、考試院(人事院に相当)、監察院(国政調査と公務員の弾劾)の五院を設けている。「臨時条款」体制のもとで、この中華民国憲法は棚上げされているにもかかわらず、強権政治を隠蔽し、かつ「中国の正統政府」を根拠づける意図から、国民党政権はあたかも全中国を統治しているかのように、台湾移転以前の政府組織を踏襲した。さらに総統の「緊急処分権」にもとづいて、国家安全会議をはじめとする、危機管理の「動員戡乱機構」を設けている。これにより蒋介石総統、その後の蒋経国総統を頂点とした国民党の一党独裁体制が可能となり、現実に構築された。 しかし、「中国の正統政府」を主張するがために、国民党政権はさまざまな矛盾を抱えざるを得ない。その最たるものは、行政院の一省庁にあたる「蒙蔵委員会」(蒙古とチベットを管轄する機関)の存在である。チベットはさておき、周知のように蒙古は一九二四年に独立しモンゴル人民共和国となり、一九五六年に国連に加盟した、国際社会が公認している独立国家である。そのようなモンゴルに「主権を有する」と主張するばかりか、管轄官庁までも設けているのは、あからさまな虚構であり、中華民国が「唯一の中国」であることも、国民党政権が「中国の正統政府」であることも、虚構に過ぎないことを示すものである。この虚構を維持するために、国民党政権も外省人を含めた台湾住民も、多大な犠牲を強いられている。 一党独裁と蒋家の支配体制 国民党はながらく擬似「レーニン式の政党」をめざし、一党独裁という「以党治国」の体制を整えようとした。それまでの国民党は諸派閥の連合体に過ぎなかったが、台湾移転を前にして党の再編成を行ない、蒋介石の直系だけでその中枢を固め、台湾において蒋介石のちに落経国の一元的な支配体制を構築し、「以党治国」を実現したのである。 一九四九年五月二十日の戒厳令の施行を契機に、国民党政権は集会と結社の自由を制限するとともに、新たな政党の結成も禁止した。これがいわゆる「党禁」である。国民党とともに台湾に移転した政党には、「中国青年党」と「中国民主社会党」があり、いずれも国民党から補助金を得てこそ存続する泡沫政党に過ぎなかった。その存在意義はもっぱら、国民党の一党独裁色を薄めることにあり、「便所に飾る花瓶」と椰揄されているように、「便所」(一党独裁)の「悪臭]を消すことはできなかった。
国民党の組織も共産党と類似しており、「党中央」に中央党部を設け、そのもとに縦の組織として、地方行政機関に並行して「地方党部」があり、それぞれの行政機関(地方政府)を指導する。地方党部にはそれぞれ「民衆服務処(站)とがあり、国民党の名で市民にサービスを提供するとともに、思想の指導と行動の監視にあたった。ただし、この市民サービスは、地方行政機関が大半の経費を負担しており、さながら「国庫が党庫に通ずる」ものであった。また横の組織として、軍や公営企業などの「特種党部」があり、軍には中隊にいたるまでに党の組織がおかれ、政治将校の「政治作戦官」や「指導員」が党の政策遂行と思想指導にあたった。公営企業には企業ごとに党部がつくられ、たとえば鉄道局には「鉄道党部」がある。特種党部のなかでももっとも機能を有しているのは、退除役軍人の「黄復興党部」である。国民党の組織活動はこれにとどまらず、党中央財務委員会が管轄する特権的な「党営企業」が、あらゆる分野の営利事業に進出しており、台湾最大の企業集団とさえいわれている。このような縦横無尽の国民党の組織網の構築に、蒋経国の果たした役割は大きく、これが蒋経国の後日の権力掌握にもつながっている。
屋上屋の行政機構 国民党政権は「中国の正統政府」を主張し、中華民国こそが「唯一の中国」であることを内外に示すために、実際の支配地域は台湾全域と、福建省の金門と馬祖の二つの小島に過ぎないにもかかわらず、中央政府には行政、立法、司法、監察、考試の五院を設けたばかりか、さらに行政院に八つの部(省庁)と二つの委員会、通称「八部二会」すなわち、内政部、外交部、財政部、経済部、交通部、国防部、教育部、法務部および、海外の華僑に関する事務を取り扱う僑務委員会と蒙蔵委員会をおき、あたかも全中国を支配するかのような体制を維持している。 地方行政区域は重ねての画定のすえ、行政院のもとに台湾省、行政院直轄の台北市と高雄市、および福建省(金門県と連江県の馬祖を管轄)がおかれ、台湾省政府のもとには台北県、桃園県、新竹県、苗栗県、台中県、彰化県、南投県、雲林県、嘉義県、台南県、高雄県、屏東県、台東県、花蓮県、宜蘭県、澎湖県の一六の県と、省政府管轄の基隆市、新竹市、台中市、嘉義市、台南市の五つの省轄市、合わせて「二一県市」がある。一六の県政府のもとには、三〇〇余におよぶ県轄市、鎮(町)、郷(村)があり、それぞれの市、鎮、郷には日本の役所や役場にあたる公所がおかれている。要するに、行政院を頂点に省政府と行政院の直轄市政府があり、省政府のもとに県と省の直轄市政府があり、県政府のもとに県轄市・鎮・郷の公所がおかれているのである。 台湾省主席、台北市長、高雄市長、福建省主席は任命制がとられ、福建省を除くそれぞれの議会は、市民の選挙による議員で構成される。また、県と省轄市、市・鎮・郷の長および、それぞれの議会議員はすべて市民の公選による。このように一応、地方自治の形態を整えているが、これはあくまでも形式的なもので、日本の地方自治が「三割自治」ならば、台湾のそれは「一割自治」といえる。台湾の場合、地方自治体の長には臨時の雇用を除き、独自の人事権もなければ、自治体独自の財源も乏しい。公務員には国家と地方の別はなく、その試験と任用は中央政府が管轄し、税制には中央と地方の別はあるが、税収のほとんどは中央政府が吸い上げる仕組みになっている。財政の状況は、市・鎮・郷は県、県は省、省は中央政府の補助金に依存しているのが実態であり、台湾はまさに中央集権国家そのものである。 台湾省政府には行政院の「八部二会」のうちの国防、法務、外交の三部と二会を除く、ほぼ同じ性格の「庁」や「処」を設けている。県政府と台湾省の直轄市政府、および県轄市・鎮・郷公所には、台湾省政府とほぼ同じ性格の「局」「科」「課」を設けている。このように県および市・鎮・郷レベルの政府や公所の行政組織は必要であるが、中央政府(行政院)と台湾省政府は、明らかに機構的にも機能的にも重複しており、この「屋上屋」の構造ゆえに行政の肥大化、繁雑化ばかりか行政効率の低下を招いている。狭い台湾に重層的な行政機構と膨大な数の役人を抱えている現象は、「廟小菩薩大」(小さな廟に大きな神像を祀る)、あるいは「廟小菩薩多」(狭い廟にたくさんの神様を祀る)と揶揄され、まさに「石を投げれば役人にあたる」状況にある。 「屋上屋」の最たるものは、総統の緊急処分権にもとづいて一九六七年二月に設立された「国家安全会議」である。これは従前の国防会議に代わるもので、総統を議長とし、その決定を行政院に執行させることから、いわば「行政院の上の行政院」である。国民党の一党独裁のもとで、国民党中央常務委員会の決定を執行するのも行政院である。そして国家安全会議のメンバーのほとんどは国民党中央常務委員であり、ともに国家の大政大策の決定機関の構成員であり、その重複ぶりと複雑さはきわまりない。ちなみに、設立当初の国家安全会議の議長は蒋介石総統、秘書長は蒋経国国防部長であった。 「屋上屋」の最たるもののもう一つに、「警察の上の警察」ともいうべき「法務部調査局」(以下「調査局」とする)がある。台湾の警察は戦前の日本と同じく、内政部警政署(戦前の内務省警保局に相当)の一元的な指揮命令下にある。台北の事件の犯人が台南に逃亡しても、台北の警察は台南で犯人を逮捕することができる。これはアメリカの警察が州を越えて犯人を逮捕できないのとは大きな違いがある。そのためにアメリカには州を越えた犯罪事件を取り扱う連邦警察であり、司法省に所属する「連邦捜査局」( FBI)がある。ところが狭い国土に、しかも一元的な警察の指揮命令体制にありながら、台湾にも FBIにあたる調査局が設けられている。調査局の業務は警察の業務と重複するだけでなく、はるかに超える権限を行使し、その上に「秘密警察」の性格をもち、「政治警察」の役割も果たしている。調査局の派遣した人員は、各級の行政機関や公営企業の人事関係部署において、「第二」部・科・課・係(これを「人二」という)として思想調査にあたっている。国民党政権はこの「人二」を通じて、政権の四大支柱である「党」「政」「軍」「特」の、「政」つまり行政機関と公営企業を掌握するのである。 国民党と蒋介石父子の軍
国共内戦に敗れ、台湾に移転した当時の国民党政権は、六〇万の大軍を擁していたといわれる。そのなかには中国各地に割拠していた軍閥の部隊も含まれていた。そのため台湾移転後に、アメリカの軍事学校出身の孫立人将軍を編練司令官に起用して、台湾南部の鳳山と屏東で、中国からの部隊の再編成と淘汰を行なうとともに、台湾で募集した新兵を訓練した。こうして再編成された部隊は、国民党の武力装置となり、「改造」された国民党が蒋介石父子の党となったのと同様に、蒋介石父子に忠誠を尽くす軍隊となった。
泣く子も黙る特務機関 国民党政権は中国政治に見られる、陰湿な「秘密警察政治」を台湾に持ち込んでいる。秘密警察と「密告」は不可分であり、保身のために親子や夫婦、兄弟、親戚の間でさえ密告を惜しまない。国民党の強権政治のもとで、台湾人同士が互いに疑心暗鬼に陥り、これもまた国民党の台湾統治に大きく資している。
国家安全局は、かつて日本統治時代の警察がそうであったように、「泣く子も黙る」と恐れられ、台北市郊外の陽明山仰徳大道一一〇番に本局がおかれていることから、「神秘の一一〇番」といわれ、部外者の出入りはもとより、報道関係者も正門からの撮影以外は許されない。歴代の局長はすべて軍人、それも大将で占められ、「台湾の
KGB」つまり、「TKGB」の異名もある。国民党政権に対する国民一人ひとりの「安全度」をチェックするための、いわゆる「安全資料」がつくられている。軍においては政治将校が、公務員や公営企業の従業員は、調査局に属 抵抗と弾圧 「二・二八事件」以後、台湾に監視と摘発の「天羅地網」を張りめぐらせた国民党政権は、改革の要求や強権政治の批判、反体制運動に対し、「中国共産党に通じた」「中共のスパイを隠匿した」「政府転覆を陰謀した」などの罪名で、容赦なく弾圧した。それにとどまらず、批判や抵抗をする異議分子の抹殺のために、罪の捏造も多々行なわれた。その主な例を年代順に追ってみよう。
一九五五年八月の「孫立人事件」。孫立人(外省人)もアメリカの信頼篤い将軍で、戦前はビルマ戦線で日本軍と戦い勲功をあげた。戦後は国民党軍の編練司令官、台湾防衛総司令官、陸軍総司令官を歴任したが蒋経国にうとまれ、総統府参軍長在任中に、部下の中国共産党スパイ事件にからみ解任され、冤罪のまま軟禁された。一九八八年二月に三二年ぶりに軟禁を解かれている。
一九六一年九月の「蘇東啓事件」。蘇東啓は当時、雲林県の県議会議員であり、国民党政権を激しく批判したため、台湾独立の画策を首謀した容疑で、支持者二〇〇余名とともに逮捕された。蘇東啓は一五年間にわたり投獄された。 一九六二年一月の「廖文毅台湾独立事件」。在東京の台湾共和国臨時大統領の廖文毅を支援した容疑で、石錫勲、郭国基、楊金虎、李源桟ら二〇〇余名が逮捕された。
一九六八年八月の「林水泉事件」。当時、林水泉は台北市議会議員であり、反国民党政権の激越な言論で知られていた。台湾独立を推進するために「全国青年団結促進会」を結成し、一九六八年八月に同志二七〇余名とともに逮捕され、二年間におよぶ裁判のすえに、有罪一五名中、林木泉、呂国民、顔尹謨の三人が一五年の刑に処された。
一九七五年十月の「白雅燦事件」。白雅燦は一九七五年の立法委員補充選挙に立候補するにあたり、蒋経国に対する二九ヵ条にわたる公開の質問状を準備したところで、反乱罪で逮捕され、公開の裁判もないまま一九八八年四月までの約一三年間投獄された。また、質問状を印刷した業者の周彬文は、「叛徒幇助」の罪で五年の刑に処された。
一九八一年七月の「陳文成博士虐殺事件」。陳文成は米国カーネギー・メロン大学の助教授で、在米中から国民党政権の批判者であり、一時帰国中の七月二日に警備総司令部に呼び出されたまま帰宅せず、翌日、台湾大学構内で死体で発見された。遺体には数々の暴行の跡があった。この事件は、在外台湾人批判者に対する見せしめともいわれている。
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