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第九章  国民党の強権政治

    国民党政権の台湾移転

    中国・南京の国民党政権は一九四七年四月二十二日、陳儀行政長官を免職するとともに長官公署を撤廃し、「台湾省政府」を設置、米国に受けのよい外交官の魏道明を台湾省政府主席に任命した。魏道明主席は五月十六日に就任し、翌日、戒厳令の解除と「二・二八事件」関係者の逮捕の中止を声明した。しかしこの声明に反して、事件関係者の逮捕と処刑は依然としてつづけられた。

    魏道明主席は台湾人を懐柔するため、台湾省政府委員の一四名中七名に台湾人を任命した。また、省政府高官にも台湾人を起用したが、それは満州国における「内面指導」とさして変わるところはなかった。つまり、満州人の配下にある日本人が実権を牛耳ったように、台湾人高官のもとで、部下たる外省人が実権を掌握したのである。

    中国における内戦は国民党の形勢不利がますます顕著となり、国民党政権は台湾への移転に向けて本格的な準備を始めていた。そのために魏道明主席は、就任一年八ヵ月後の一九四八年十二月二十九日に解任され、代わりに蒋介石の腹心である陳誠将軍が台湾省政府主席に任じられた。同時に蒋介石の長男の蒋経国谷(1910-1988) が、中国国民党台湾省委員会主任委員に就任した。また、次男の蒔緯国の率いる、陸軍の精鋭部隊である戦車兵師団も台湾に移動した。陳誠主席は翌一九四九年一月に警備総司令官を兼任し、二月に各地の港と河口を封鎖、海岸線も管制下におき、許可証を所持しない軍人や官吏、商人などの台湾上陸を厳しく制限し、中国から滔々と押し寄せる難民の流入に歯止めをかけた。さらに五月一日零時を期して一斉に戸籍調査を実施し、二十日には戒厳令を施行した。この戒厳令は、一九八七年七月十五日に解除されるまで、実に四〇年に迫る世界一長い戒厳令となった。

    一方、中国大陸では中国共産党と中立勢力の反対を無視して、国民党政権は一九四七年一月に「中華民国憲法」を布告し、これにもとづいて国民大会代表二九六一名(定数三〇四五)、立法院委員七六〇名(同、七七三)、監察院委員一八〇名(同、二二三)からなる三つの国会の、第一期の国会議員を選出した。翌年の三月に第一期の国民大会が召集され、蒋介石を総統に、李宗仁を副総統に選出した。これ以後、この一連の「選挙という手続き」に依拠して、蒋介石の率いる国民党政権は、中国の「正統政府」を主張している。しかし、戦局はますます悪化し、蒋介石の下野を要求する声が高まるなかの一九四九年一月に、蒋介石は国民党総裁のまま、ひとまず総統を辞して李宗仁を「代総統」とした。

    下野した蒋介石はその後台湾に渡り、一九四九年八月一日に台北近郊の陽明山に「中国国民党総裁弁公庁」を開設し、ここから国民党総裁として、華南一帯の国民党政権の「党」「政」「軍」「特」の諸機関を指揮し、命令を下した。この頃、頼みの綱である米国政府の国民党政権に対する失望は高まり、八月五日に発表された『中国白書』は、国民党政権の失敗の原因は腐敗と無能にあり、「不信の政権」と断定して、国民党政権を見限ろうとしていた。そして十月一日、中国共産党が中華人民共和国の建国を宣言し、国民党の敗北はいよいよ決定的となった。代総統の李宗仁は十二月五日に米国に亡命し、国民党政権は七日に台湾移転を声明した。ちなみに、国民党政権は台湾に移転した後も、 一貫して中国共産党の中華人民共和国を認めず、中華民国こそ「唯一の中国」、国民党政権こそ「中国の正統政府」であることを固持している。いわゆる「二つの中国」または「一つの中国、一つの台湾」の問題の原点はここにあり、その後の国際社会における台湾の立場を困難に陥れておる。

    朝鮮戦争と米国の軍事保護

    国民党政権に追い撃ちをかけるかのように、米国のトルーマン大統領は一九五〇年一月五日に、「台湾海峡不介入」を声明した。つまり中国の共産党軍(中国軍)の台湾侵攻に、米国は関与しないことを意味する。この危機に際して蒋介石は三月に「総統復職」を声明し、陳誠を行政院長(首相に相当)に任命した。ついでながら、このときに元総督府を総統府として、今日にいたっている。

    米国にまさに見放されようとしていた国民党政権にとって、「救いの神」ともいうべき朝鮮戦争が、六月二十五日に勃発した。トルーマン大統領は六月二十七日に、一転して「台湾海峡の中立化」を声明し、ただちに第七艦隊を台湾海峡の巡航に派遣、中国軍の台湾侵攻を阻止するとともに、国民党軍による中国攻撃も阻止した。これより以後、台湾は米国の軍事保護下におかれ、冷戦構造下の西側陣営の一員となる。朝鮮戦争の勃発は、国民党政権ならびに台湾人の運命を左右する重大なできごとであった。

    一九五一年一月には、米国政府は国民党政権に対する軍事援助を復活し、翌二月十日に「米華共同防衛相互援助協定」に調印、台湾に軍事顧問団を派遣し、五月には執務が開始された。また一九五四年十二月には「米華共同防衛条約」を締結した。その後、国際情勢の変化により、一九七九年一月の米中国交正常化を境に、台湾と米国の国交はなくなったが、米国は同年四月十日に「米華共同防衛条約」に代わる、国内法の「台湾関係法」を制定して、台湾を「政治的な実体」と認め、実質的な関係を維持し、台湾の防衛に必要な武器を有償で提供しつづけてきた。米国政府と議会は、「台湾は中国の一部」「台湾問題は内政問題」であると主張する中国政府に対し、「台湾問題は平和的に解決しなければならない」と、「警告」ともとれるような声明を重ねて発表している。要するに、国民党政権は米国の保護下の台湾で生き延び、体制づくりに専念することができたのである。

    動員戡乱時期臨時条款

    蒋介石が第一期国民大会で総統に選出された当時、就任の条件として、共産党の「反乱」の鎮圧には、憲法を改正して総統に緊急の処分権を認めるか、あるいは臨時に憲法に優越する法律を制定するかを要求した。結局、蒋介石の要求を容れ、憲法に優越した有効期間を二年とする、「動員戡乱時期臨時条款」(以下「臨時条款」とする)が制定され、 一九四八年五月十日に施行された。「動員戡乱時期」とは、「反乱団体」である中国政府・中共政権を「戡乱」(平定、鎮圧)するまでの、国家総動員の時期をいう。したがって「臨時条款」は時限立法であり、有効期間を二年としたのは、それまでに「反乱」を平定できると踏んでいたからにほかならない。

    「臨時条款」は、中国共産党の「反乱」のおよばない台湾にも施行された。国民党政権の台湾移転後の一九五〇年五月に、「臨時条款」は期限満了となったが、「反乱」の平定が実現していないことを理由に延長され、 一九九一年五月に「動員戡乱時期」が終了するまで、四三年間にわたり施行されている。つまり国民党政権は、米国の保護下の台湾を非常時の「動員戡乱時期」体制におき、「臨時条款」で統治したのである。この「臨時条款」を補強するのが戒厳令であり、また「動員戡乱時期」を冠した約一六〇もの法律や条例であった。いいかえれば国民党政権は中国共産党の「反乱」を口実に、台湾における強権政治を正当化し、統治体制の安定と強化をはかったのである。

    「臨時条款」は改正を重ね、総統ならびに第一期の国会議員の終身化を可能にし、総統に「緊急処分権」を与えている。中華民国憲法は「五権憲法」とされ、国民大会に総統の選出と憲法の改正権を付与し、総統のもとに中央政府として五つの機関、つまり立法院(法律制定と改廃、ただし国政調査権はない)、司法院(憲法解釈と各級裁判所を管轄)、行政院(内閣に相当)、考試院(人事院に相当)、監察院(国政調査と公務員の弾劾)の五院を設けている。「臨時条款」体制のもとで、この中華民国憲法は棚上げされているにもかかわらず、強権政治を隠蔽し、かつ「中国の正統政府」を根拠づける意図から、国民党政権はあたかも全中国を統治しているかのように、台湾移転以前の政府組織を踏襲した。さらに総統の「緊急処分権」にもとづいて、国家安全会議をはじめとする、危機管理の「動員戡乱機構」を設けている。これにより蒋介石総統、その後の蒋経国総統を頂点とした国民党の一党独裁体制が可能となり、現実に構築された。

    しかし、「中国の正統政府」を主張するがために、国民党政権はさまざまな矛盾を抱えざるを得ない。その最たるものは、行政院の一省庁にあたる「蒙蔵委員会」(蒙古とチベットを管轄する機関)の存在である。チベットはさておき、周知のように蒙古は一九二四年に独立しモンゴル人民共和国となり、一九五六年に国連に加盟した、国際社会が公認している独立国家である。そのようなモンゴルに「主権を有する」と主張するばかりか、管轄官庁までも設けているのは、あからさまな虚構であり、中華民国が「唯一の中国」であることも、国民党政権が「中国の正統政府」であることも、虚構に過ぎないことを示すものである。この虚構を維持するために、国民党政権も外省人を含めた台湾住民も、多大な犠牲を強いられている。

    一党独裁と蒋家の支配体制

    国民党はながらく擬似「レーニン式の政党」をめざし、一党独裁という「以党治国」の体制を整えようとした。それまでの国民党は諸派閥の連合体に過ぎなかったが、台湾移転を前にして党の再編成を行ない、蒋介石の直系だけでその中枢を固め、台湾において蒋介石のちに落経国の一元的な支配体制を構築し、「以党治国」を実現したのである。

    一九四九年五月二十日の戒厳令の施行を契機に、国民党政権は集会と結社の自由を制限するとともに、新たな政党の結成も禁止した。これがいわゆる「党禁」である。国民党とともに台湾に移転した政党には、「中国青年党」と「中国民主社会党」があり、いずれも国民党から補助金を得てこそ存続する泡沫政党に過ぎなかった。その存在意義はもっぱら、国民党の一党独裁色を薄めることにあり、「便所に飾る花瓶」と椰揄されているように、「便所」(一党独裁)の「悪臭]を消すことはできなかった。

    蒋介石は陽明山に、中国国民党総裁弁公庁を開設して間もない一九四九年八月五日に、これまで党の最高権力機関である中央常務委員会を廃止し、新たに蒋経国を含む一六名の委員からなる「中央改造委員会」を設けた。この「改造」とはほかでもない、蒋介石の直系による党の掌握であり、実質的な党の改組である。なかでも台湾移転にともない、四散した党員の復帰を目的ととて、 一九五〇年九月に実施した「党員帰隊実施弁法」は、党員をフルイにかける効果をもたらしている。一九五二年十月の第七回党員代表大会において、国民党は中央改造委員会の任務の完了を宣言、従来の中央常務委員会を回復した。蒋介石はこの党の改造を通じて、みずからの地位を磐石なものとし、絶対的な存在となった。合わせて蒋介石の神格化と個人崇拝の、いわゆる「造神運動」も進められ、台湾各地に蒋介石の銅像があいついで建立されて行く。

    蒋介石と蒋経国の父子は権力の掌握に努める一方、後継体制づくりも進めた。蒋経国はソ連に留学し、ソ連共産党員の経歴をもち、国民党の擬似「レーニン式政党」の実現に大きく寄与している。国民党の性格は共産党とほぼ同じで、革命が成就、つまり「三民主義」(孫文の主張する「民族主義」「民権主義」「民生主義」が、全中国に実現するまで「革命」をつづける「革命政党」であり、党首(蒋介石のときは総裁、その後は主席)に絶対的な権力を集中させた。党首は共産党の政治局に相当する、中央常務委員会の議長であり、毎週水曜日に開かれる中央常務委員会は、ほぼ党首の意向に沿って、国家の基本政策を決定し、共産党の「民主集中制」と大差はない。

    国民党の組織も共産党と類似しており、「党中央」に中央党部を設け、そのもとに縦の組織として、地方行政機関に並行して「地方党部」があり、それぞれの行政機関(地方政府)を指導する。地方党部にはそれぞれ「民衆服務処(站)とがあり、国民党の名で市民にサービスを提供するとともに、思想の指導と行動の監視にあたった。ただし、この市民サービスは、地方行政機関が大半の経費を負担しており、さながら「国庫が党庫に通ずる」ものであった。また横の組織として、軍や公営企業などの「特種党部」があり、軍には中隊にいたるまでに党の組織がおかれ、政治将校の「政治作戦官」や「指導員」が党の政策遂行と思想指導にあたった。公営企業には企業ごとに党部がつくられ、たとえば鉄道局には「鉄道党部」がある。特種党部のなかでももっとも機能を有しているのは、退除役軍人の「黄復興党部」である。国民党の組織活動はこれにとどまらず、党中央財務委員会が管轄する特権的な「党営企業」が、あらゆる分野の営利事業に進出しており、台湾最大の企業集団とさえいわれている。このような縦横無尽の国民党の組織網の構築に、蒋経国の果たした役割は大きく、これが蒋経国の後日の権力掌握にもつながっている。

    党総裁であり総統である父の庇護のもとで、蒋経国は戒厳令施行後の一九四九年八月に新設された、国民党政権の最高権力の実質的な執行機関である「政治行動委員会」(のちに「国防会議」と称する)の事実上の統轄者に起用された。翌一九五〇年四月には、軍における党の拠点であり、軍人の思想統制と政治将校の元締めである「国防部総政治部」の主任にも就任した。これは軍の再編成を通じて、軍の国民党化つまり「党の軍」とするとともに、蒋介石のちに蒋経国に絶対的に忠誠を尽くす軍の育成をもくろんだものである。さらに一九五一年十一月には士官学校の一つである、政治将校を養成する「政工幹部学校」,を設立し、蒋経国がみずから校長に就任した。つづいて翌一九五二年十月には、共産党の「共産主義青年団」や、過日の国民党の「三民主義青年団」にならい、「中国青年反共救国団」を設立し、団主任となった。中国青年反共救国団は、国民党に忠実な学生や青年の育成を目的に、思想と生活を指導するもので、主に高等学校以上の学生を対象とした。学生は入学と同時に自動的に入団するが、 一般の青年は自由意思でそれぞれの地方の団部に入団できる。蒋経国はこれを通じて、青年層の掌握に努めた。

    蒋経国は一九六五年一月に国防部長に就任したが、その二カ月後にライバルと目され、蒋介石の腹心であった副総統の陳誠が死亡した。これで蒋介石と落経国の父子相伝の体制は、実質的に固まった。蒋介石は一九六六年五月に第四期の総統に就任し、副総統にはとかくイエス・マンの風評がある厳家淦が起用され、行政院長も兼ねた。厳家淦行政院長のもとで、蒋経国は一九六九年六月に副院長に就任した。この頃、蒋介石の老衰に加え、厳家淦の党内の地位と個人的な性格もあって、蒋経国は行政院副院長として実質的に最高権力を行使した。 一九七二年五月に蒋介石と厳家性は、それぞれ第五期の総統と副総統に就任し、蒋経国は行政院長に昇格した。そして一九七五年四月に蒋介石が死亡すると、厳家栓が総統に昇格したが、国民党の党首には蒋経国が就任した。蒋介石から蒋経国への党首の「世襲」であり、このときから党首は「党主席」となり、国家元首の総統と国民党の主席が分離されることになった。しかし、それから三年後の一九七八年五月、党主席の蒋経国が第六期総統に就任すると、再び党主席と総統を兼ねることになり、いわゆる「蒋家王朝」が実現したのである。

    屋上屋の行政機構

    国民党政権は「中国の正統政府」を主張し、中華民国こそが「唯一の中国」であることを内外に示すために、実際の支配地域は台湾全域と、福建省の金門と馬祖の二つの小島に過ぎないにもかかわらず、中央政府には行政、立法、司法、監察、考試の五院を設けたばかりか、さらに行政院に八つの部(省庁)と二つの委員会、通称「八部二会」すなわち、内政部、外交部、財政部、経済部、交通部、国防部、教育部、法務部および、海外の華僑に関する事務を取り扱う僑務委員会と蒙蔵委員会をおき、あたかも全中国を支配するかのような体制を維持している。

    地方行政区域は重ねての画定のすえ、行政院のもとに台湾省、行政院直轄の台北市と高雄市、および福建省(金門県と連江県の馬祖を管轄)がおかれ、台湾省政府のもとには台北県、桃園県、新竹県、苗栗県、台中県、彰化県、南投県、雲林県、嘉義県、台南県、高雄県、屏東県、台東県、花蓮県、宜蘭県、澎湖県の一六の県と、省政府管轄の基隆市、新竹市、台中市、嘉義市、台南市の五つの省轄市、合わせて「二一県市」がある。一六の県政府のもとには、三〇〇余におよぶ県轄市、鎮(町)、郷(村)があり、それぞれの市、鎮、郷には日本の役所や役場にあたる公所がおかれている。要するに、行政院を頂点に省政府と行政院の直轄市政府があり、省政府のもとに県と省の直轄市政府があり、県政府のもとに県轄市・鎮・郷の公所がおかれているのである。

    台湾省主席、台北市長、高雄市長、福建省主席は任命制がとられ、福建省を除くそれぞれの議会は、市民の選挙による議員で構成される。また、県と省轄市、市・鎮・郷の長および、それぞれの議会議員はすべて市民の公選による。このように一応、地方自治の形態を整えているが、これはあくまでも形式的なもので、日本の地方自治が「三割自治」ならば、台湾のそれは「一割自治」といえる。台湾の場合、地方自治体の長には臨時の雇用を除き、独自の人事権もなければ、自治体独自の財源も乏しい。公務員には国家と地方の別はなく、その試験と任用は中央政府が管轄し、税制には中央と地方の別はあるが、税収のほとんどは中央政府が吸い上げる仕組みになっている。財政の状況は、市・鎮・郷は県、県は省、省は中央政府の補助金に依存しているのが実態であり、台湾はまさに中央集権国家そのものである。

    台湾省政府には行政院の「八部二会」のうちの国防、法務、外交の三部と二会を除く、ほぼ同じ性格の「庁」や「処」を設けている。県政府と台湾省の直轄市政府、および県轄市・鎮・郷公所には、台湾省政府とほぼ同じ性格の「局」「科」「課」を設けている。このように県および市・鎮・郷レベルの政府や公所の行政組織は必要であるが、中央政府(行政院)と台湾省政府は、明らかに機構的にも機能的にも重複しており、この「屋上屋」の構造ゆえに行政の肥大化、繁雑化ばかりか行政効率の低下を招いている。狭い台湾に重層的な行政機構と膨大な数の役人を抱えている現象は、「廟小菩薩大」(小さな廟に大きな神像を祀る)、あるいは「廟小菩薩多」(狭い廟にたくさんの神様を祀る)と揶揄され、まさに「石を投げれば役人にあたる」状況にある。

    「屋上屋」の最たるものは、総統の緊急処分権にもとづいて一九六七年二月に設立された「国家安全会議」である。これは従前の国防会議に代わるもので、総統を議長とし、その決定を行政院に執行させることから、いわば「行政院の上の行政院」である。国民党の一党独裁のもとで、国民党中央常務委員会の決定を執行するのも行政院である。そして国家安全会議のメンバーのほとんどは国民党中央常務委員であり、ともに国家の大政大策の決定機関の構成員であり、その重複ぶりと複雑さはきわまりない。ちなみに、設立当初の国家安全会議の議長は蒋介石総統、秘書長は蒋経国国防部長であった。

    「屋上屋」の最たるもののもう一つに、「警察の上の警察」ともいうべき「法務部調査局」(以下「調査局」とする)がある。台湾の警察は戦前の日本と同じく、内政部警政署(戦前の内務省警保局に相当)の一元的な指揮命令下にある。台北の事件の犯人が台南に逃亡しても、台北の警察は台南で犯人を逮捕することができる。これはアメリカの警察が州を越えて犯人を逮捕できないのとは大きな違いがある。そのためにアメリカには州を越えた犯罪事件を取り扱う連邦警察であり、司法省に所属する「連邦捜査局」( FBI)がある。ところが狭い国土に、しかも一元的な警察の指揮命令体制にありながら、台湾にも

     FBIにあたる調査局が設けられている。調査局の業務は警察の業務と重複するだけでなく、はるかに超える権限を行使し、その上に「秘密警察」の性格をもち、「政治警察」の役割も果たしている。調査局の派遣した人員は、各級の行政機関や公営企業の人事関係部署において、「第二」部・科・課・係(これを「人二」という)として思想調査にあたっている。国民党政権はこの「人二」を通じて、政権の四大支柱である「党」「政」「軍」「特」の、「政」つまり行政機関と公営企業を掌握するのである。

    国民党と蒋介石父子の軍

    中国の政治文化には「投票箱から政権が生まれる」という発想はない。毛沢東がいったように「鉄砲のもとで政権が生まれる」のが、中国政治の真髄である。国民党は独自の軍事力の養成と確保のために、一九二四年に蒋介石を校長とする「中国国民党党立黄埔軍官(士官)学校」を、広州郊外の黄埔に設立した。この黄埔軍官学校の卒業生のほとんどはその後、蒋介石摘系の軍隊の幹部となっている。

    国共内戦に敗れ、台湾に移転した当時の国民党政権は、六〇万の大軍を擁していたといわれる。そのなかには中国各地に割拠していた軍閥の部隊も含まれていた。そのため台湾移転後に、アメリカの軍事学校出身の孫立人将軍を編練司令官に起用して、台湾南部の鳳山と屏東で、中国からの部隊の再編成と淘汰を行なうとともに、台湾で募集した新兵を訓練した。こうして再編成された部隊は、国民党の武力装置となり、「改造」された国民党が蒋介石父子の党となったのと同様に、蒋介石父子に忠誠を尽くす軍隊となった。

    朝鮮戦争が勃発した後、アメリカは台湾に対する援助を始めた。そして「共同安全保障法」にもとづき、一九五一年から一九六五年までに約一五億米ドルの援助を台湾に提供し、そのうちの約八億米ドルが軍事援助であった。アメリカの軍事顧問団とともに、日本の元軍人である富田直亮(中国名、白鴻亮)を団長とする、いわゆる「白将軍」の「白団」と称される秘密の軍事顧問団も加わり、国民党軍の装備と訓練を支援した。これらが国民党軍の近代化に資し、台湾での徴兵もあって、戦闘能力は飛躍的に強化された。

    国民党政権は中国大陸奪還をめざして、「一年準備、二年反攻、三年掃討、五年成功」の「反攻大陸」のスローガンを掲げ、長きにわたり喧伝してきた。しかし、いつの間にか「反攻大陸」のスローガンは消え、逆に中国の武力侵攻に備える「専守防衛」の国防体制に変わっている。常に五〇万前後の兵力を維持しているといわれており、そのために台湾人に課せられる負担はきわめて大きい。一九七〇年代まで、軍事費の予算は総予算の五〇%を超えており、公共建設などの社会資本への投下にしわ寄せをきたしている。そればかりか国民党も共産党同様に、軍人や兵士に対する「政治教育」を徹底しており、国民党と蒋介石父子の「私兵」となったため、国民党政権への批判勢力を敵対視している。

    一九九三年四月現在の資料によれば、人口約二〇四〇万の台湾に、陸・海・空三軍の総兵力は四六万、その比率は陸軍四・二、海軍一、空軍一と発表されている。この比率から計算すれば、陸軍は約三一万二〇〇〇、海軍と空軍はともに約七万四〇〇〇となる。さらに今後一〇年以内に、陸軍の兵員を六万ほど削減して二五万に、海軍と空軍をそれぞれ七万五〇〇〇とし、全兵力四〇万とする計画が発表されており、陸軍はミサイル部隊、海軍は高速ミサイル艇、空軍は高性能戦闘機の整備に重点がおかれる。このような現状と計画から見ても、「中国統一」の軍事体制ではないことは明らかであり、むしろ中国からの侵攻に備える、独立国家の防衛体制である。

    泣く子も黙る特務機関

    国民党政権は中国政治に見られる、陰湿な「秘密警察政治」を台湾に持ち込んでいる。秘密警察と「密告」は不可分であり、保身のために親子や夫婦、兄弟、親戚の間でさえ密告を惜しまない。国民党の強権政治のもとで、台湾人同士が互いに疑心暗鬼に陥り、これもまた国民党の台湾統治に大きく資している。

    台湾の秘密警察は通常、「特務機関」または「秘密の治安情報機関」と称されている。「治安情報機関」と称されているように、「治安機関」と「情報機関」が一緒になっているところに問題がある。それは情報機関が治安機関の、治安機関が情報機関の権限を行使するからである。台湾に逃れた当初の特務機関は繁雑をきわめ、概して国民党政権の「軍事調査統計局」(略称「軍統」)と、国民党の「中央党部調査統計局」(略称「中統」)の二大組織の系統に分けられる。「軍統」と「中統」は、功名争いなどから常に反目しており、互いに密告し合い、「罪人の生産」にしのぎを削った。

    一九六七年二月に「国家安全会議」が発足し、その執行機関ともいうべき「国家安全局」が設置され、警察および秘密の治安情報機関を再編して、その傘下におさめた。国家安全局の指揮命令下には、行政機関では内政部の警政署と出入国管理局、法務部調査局、軍事機関では台湾警備総司令部、国防部の総政治作戦部と軍事情報局、憲兵司令部、国民党の機関として社会工作委員会、(中国)大陸工作委員会、海外工作委員会があり、そのなかで直接的に台湾人の日常生活にかかわるのは、警政署、調査局、警備総司令部、憲兵司令部、社会工作委員会である。ここにも党と国家の癒着が見られ、台湾でいう「党国不分」の現象である。

    国家安全局は、かつて日本統治時代の警察がそうであったように、「泣く子も黙る」と恐れられ、台北市郊外の陽明山仰徳大道一一〇番に本局がおかれていることから、「神秘の一一〇番」といわれ、部外者の出入りはもとより、報道関係者も正門からの撮影以外は許されない。歴代の局長はすべて軍人、それも大将で占められ、「台湾の KGB」つまり、「TKGB」の異名もある。国民党政権に対する国民一人ひとりの「安全度」をチェックするための、いわゆる「安全資料」がつくられている。軍においては政治将校が、公務員や公営企業の従業員は、調査局に属する「人二」が、一般の市民は警察と国民党の社会工作委員会に属する各地の「民衆服務処(站)」とが、海外においては大使館または代表部の「安全官」が作成し、国家安全局が「安全資料」を集中管理する。その徹底ぶりは、まさに「天羅地網」といえ、国家の治安情報活動に名を借りて、内外の台湾人の政治活動や思想を監視して、国民党政権や国民党に対する批判者を摘発し、しばしば公開の裁判もなく断罪している。

    抵抗と弾圧

    「二・二八事件」以後、台湾に監視と摘発の「天羅地網」を張りめぐらせた国民党政権は、改革の要求や強権政治の批判、反体制運動に対し、「中国共産党に通じた」「中共のスパイを隠匿した」「政府転覆を陰謀した」などの罪名で、容赦なく弾圧した。それにとどまらず、批判や抵抗をする異議分子の抹殺のために、罪の捏造も多々行なわれた。その主な例を年代順に追ってみよう。

    一九五三年五月の「呉国楨アメリカ亡命」。呉国楨(外省人)はアメリカの信任が篤く、一九四九年十二月に台湾省政府主席に起用されたが、蒋経国とソリが合わず、暗殺の危機を察知して、台湾省政府主席を一九五三年三月に離任、五月にアメリカに亡命した。亡命後は国民党政権の強権政治、とくに蒋経国の特務支配を厳しく批判した。

    一九五五年八月の「孫立人事件」。孫立人(外省人)もアメリカの信頼篤い将軍で、戦前はビルマ戦線で日本軍と戦い勲功をあげた。戦後は国民党軍の編練司令官、台湾防衛総司令官、陸軍総司令官を歴任したが蒋経国にうとまれ、総統府参軍長在任中に、部下の中国共産党スパイ事件にからみ解任され、冤罪のまま軟禁された。一九八八年二月に三二年ぶりに軟禁を解かれている。

    一九六〇年九月の「雷震事件」。雷震(外省人)は国民党員であり、高官の経歴もある。その主宰する雑誌『自由中国』で国民党政権を鋭く批判し、「反攻大陸無望論」を唱えたこともある。台湾人の有識者や政治家を結集して、「中国民主党」の結成に奔走中に、中国共産党のスパイを庇護した容疑で一〇年の徒刑となった。

    一九六一年九月の「蘇東啓事件」。蘇東啓は当時、雲林県の県議会議員であり、国民党政権を激しく批判したため、台湾独立の画策を首謀した容疑で、支持者二〇〇余名とともに逮捕された。蘇東啓は一五年間にわたり投獄された。

    一九六二年一月の「廖文毅台湾独立事件」。在東京の台湾共和国臨時大統領の廖文毅を支援した容疑で、石錫勲、郭国基、楊金虎、李源桟ら二〇〇余名が逮捕された。

    一九六四年九月の「台湾人民自救宣言事件」または「彭明敏事件」。当時、台湾大学教授の彭明敏ならびに弟子の謝聡敏と魏廷朝の二人は、国際社会に「一つの中国と一つの台湾」が存在するのは厳然たる事実であるとして、その直視と現実的な対応を求める趣旨の、「台湾人民自救宣言」を印刷したところで秘密逮捕された。彭明敏らの逮捕は、友人のアメリカ人学者の捜索と追及により明らかとなり、国民党政権は翌十月に逮捕の事実を公表した。三人とも有期刑を科されたが国際的な圧力で、彭明敏は一九六五年十一月に特赦となり、謝と魏の二人は刑期を半減されて四年となった。ちなみに、この宣言は今日の「一台一中」(一つの台湾と一つの中国)論の原点となっている。

    一九六八年八月の「林水泉事件」。当時、林水泉は台北市議会議員であり、反国民党政権の激越な言論で知られていた。台湾独立を推進するために「全国青年団結促進会」を結成し、一九六八年八月に同志二七〇余名とともに逮捕され、二年間におよぶ裁判のすえに、有罪一五名中、林木泉、呂国民、顔尹謨の三人が一五年の刑に処された。

    一九七一年十二月の台湾キリスト教長老教会の「国是声明」。アメリカ大統領のニクソンの訪中を前に、台湾キリスト教長老教会(事務局長・高俊明牧師)は、台湾の将来は台湾住民の自決に委ねる、台湾の民主化の推進、を要求する「国是声明」を発表した。同教会は一九七七年八月にも「人権宣言」を発表、アメリカ大統領、関連する各国、全世界の教会に「中国が台湾を併呑するこのときに、われわれは信仰と国連の人権宣言にもとづき、台湾の将来は台湾の住民により決定すべきである」と主張し、「台湾を新しく独立した国家」にするための必要な措置を要請した。この「国是声明」と「人権宣言」は、国民党政権を強く刺激し、後日のキリスト教関係者の弾圧と逮捕につながった。

    一九七五年十月の「白雅燦事件」。白雅燦は一九七五年の立法委員補充選挙に立候補するにあたり、蒋経国に対する二九ヵ条にわたる公開の質問状を準備したところで、反乱罪で逮捕され、公開の裁判もないまま一九八八年四月までの約一三年間投獄された。また、質問状を印刷した業者の周彬文は、「叛徒幇助」の罪で五年の刑に処された。

    一九七七年十一月の「中土歴事件」。桃園県長選挙に立候補した許信良に対し、国民党が票のごまかしを画策したため市民が怒り、警察署を焼き打ちする騒ぎに発展した。このとき鎮圧に動員された軍隊は、市民に「お前らも台湾人だろう。同じ台湾人を撃てるのか」といわれて引き下がった。この経験からその後、市民の鎮圧には軍隊ではなく、警察と憲兵があたるようになった。ついでながら、一九七〇年代にいたり、台湾の兵士の九〇%は台湾人青年で占められている。

    一九七九年十二月の「美麗島事件」または「高雄事件」。十二月十日の国際人権デー記念集会が、無許可を理由に官憲の規制に遭い、衝突して流血騒ぎとなった。反国民党の指導者が一斉に検挙され、軍事裁判で反乱罪が適用された。施明徳は無期懲役、黄信介、姚嘉文、張俊宏、林義雄、林弘宣、呂秀蓮、陳菊らは一二年から一四年の懲役刑に処された。さらに翌年四月に、高俊明らキリスト教長老教会関係者一〇名が、「犯人逃走幇助と隠匿」の罪で逮捕されたが、一九八四年八月に仮釈放された。

    一九八〇年二月の「林義雄家族虐殺事件」。林義雄は当時、台湾省議会議員であった。「高雄事件」の逮捕者の一人として留置中の二月二十八日正午頃、自宅の実母と双子の娘の三人が何者かに惨殺された。林義雄は「高雄事件」の重要な容疑者であり、自宅が監視されているなかでの犯行であることから、特務機関の関与が指摘されている。

    一九八一年七月の「陳文成博士虐殺事件」。陳文成は米国カーネギー・メロン大学の助教授で、在米中から国民党政権の批判者であり、一時帰国中の七月二日に警備総司令部に呼び出されたまま帰宅せず、翌日、台湾大学構内で死体で発見された。遺体には数々の暴行の跡があった。この事件は、在外台湾人批判者に対する見せしめともいわれている。

    一九八四年十月の「江南殺害事件」。江南(本名は劉宜良、外省人)は米国籍をもつ作家であり、国民党政権の内幕を暴露するなど、アメリカで活躍していた。『蒋経国伝』の出版をめぐり、蒋経国の次男である蒋孝武の命令で、国防部軍事情報局が派遣した台湾のヤクザ組織により、サンフランシスコ郊外の自宅で殺害された。国民党政権はアメリカでの裁判において、事件との関係を否定したが、一九九〇年九月に江南の未亡人に慰謝料一五〇万米ドルを支払い、和解している。この事件後の一九八五年八月十七日に、「親台湾」とされるレーガン大統領は、「1986-87 年度外務授権法案」に関連して、台湾の民主化を推進するよう国民党政権に圧力をかけた。これがその後の民主化推進の契機となり、一九八六年九月の野党・民主進歩党の結党容認や、一九八七年七月の戒厳令の解除につながった。

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