「伊豆の温泉病院」

P大兄

伊豆への旅行談、私も楽しく拝読しました。 私は伊豆にはあまり土地勘がないのですが、日本から「ぶらり途中下車の旅」というテレビ番組を送ってもらうので、その中に箱根から東海道、伊豆の方まで、タレントの旅人が案内してくれる旅も時々あるので、少しは伊豆の海岸にも馴染むことができます。

伊豆の修善寺からバスで暫く行った所に、昔慶應病院の分院がありました。 川の中の古い温泉宿で、そこに一夏1週間ばかり入院して居たことがあります。 20才ぐらいの頃だったのですが、そこは痔の専門でした。 修善寺の駅からバスに乗った乗客の殆んどが、その温泉宿の停留所に着くと、皆降りるので、ちょっと驚きました。 みんな同じ手術を受ける人達でした。 

私は子供の頃から痔で悩んでいたので、慶應病院でこの温泉分院のことを聞き、早速夏休みを利用して出かけました。 院長先生は、患者をまとめてバッタバッタと次々に切っていくのですが、その後温泉に入ると実に心地よいのです。 傷口も直ぐ回復。 おまけに浴場は混浴で、男性が殆んどでしたが、時々若い女性の豊かな胸も拝むことが出来る。 慶應の先生が「日本一」と言われるだけあって、手術をしてから55年間、お尻に関する限り苦労知らずで過ごしました。

しかし残念なことに、そのバス停から狭い橋を渡って行く川中島の分院、台風で流されてしまったそうです。 川端康成の一篇を彷彿させる風情のある古宿だったのですが。 九州大学にも温泉医学研究所があるようですが、温泉が楽しめるのは、日本とアイスランドぐらいでしょうか。 カナダも、バンフに大きな露天風呂がありますが、雪に囲まれ、ロッキーの山を眺めながら温泉に浸かるのも一興です。 しかし湯の町エレジーの情緒にはまったくありません。 温泉に関する限り、カナダは未開国です。 開発の余地はあると思うのですが。

ではどうかお元気で。      (06/10/04)




「昨晩は花火でした」

P大兄

8月に入って、これからの暑さは残暑ということになるのでしょうか。 日本を離れて長くなり、昔お盆で唐湊の墓地に詣ったのは7月だったか8月だったか、記憶が怪しくなりました。

相変わらず幽々自擲の毎日です。 そしてパソコンに向かっているわけですが、今日のニュースによると、インターネットをやる人は、知人や家族とインターアクトする機会が少なくなり、独りで過ごす時間が増えると、政府の統計局が発表したと伝えていました。 そんなことは政府の調査によらなくとも、自分で半ば心得ていた心算ですが、それがコンファームされたわけです。

今はちょうど花火のシーズン。 私の住んでいる所の真ん前で花火が打ち上げられるので、かぶりつきで見られます。 何万、いやひょっとしたら何十万になるかもしれませんが、夜30分の花火のために、遠く郊外からも、時間をかけてやってきて、4時間も6時間も前から、海岸で陣取っています。 雑踏がいやだとか、群衆が苦手とか言う人もいますが、いつも独りで過ごしている私としては、明るいうちに集まってくる観衆にまじって歩くのも楽しみです。

殆んどは、若い人達ですが、結構一人で見物に来ている中高年の人もいます。 私と同じように、「孤独が好きだ」と強がりを言いながら、時には、特に暗くなると、人恋しくなるのでしょう。

海岸には、屋台の店が並びます。 ホットドッグやドーナツ、フィッシュアンドチップス。 アイスクリームにアイスドリンク。 それをノドに流し込むと、トイレに行かなくてはなりません。 臨時の仮設トイレが、あちこちに幾つも並んでありますが、どこも長蛇の行列です。 車椅子の人も大勢います。 芝や砂浜の上に毛布を拡げる人達が殆んどですが、デッキチェアを持ってくる心がけのいい家族連れもいます。 

海には、花火の舞台のまわりに、これまた無数のボートやヨットが泊まっています。 これも数時間前から待っているのでしょう。 

警官も大体が4人ずつグループになって、目を見張っています。

私は、そういった状景を一応見物すると、アパートに戻りました。 そして10時前、すっかり日が暮れてから海岸に出直しました。

花火そのものは、貴兄もよくご存知でしょう。 火柱が中空に上がると、大太鼓を叩くような炸裂音が響きます。 光と音の饗宴。 若い人は、指を口にくわえて、ピーッとつんざくような口笛を鳴らします。 かぶりつきなので、きな臭い硝煙の匂いが漂ってきます。  

10時半になると静かになり、半月の浮かぶ暗闇にもどりました。 この花火大会は2週間に4回行われるのですが、昨晩はチェコスロバキアの花火師の披露。 費用は3億円かかるそうですが、チェコやイタリア、中国からの輸送費も入っているのでしょう。 しかしその大半は、仮設トイレとか救急車とか、お巡りさんや警備のコストだそうです。

私も75才になって、花火が頭上で大音響とともに赤い火の傘を咲かすのを見ようとは思いませんでした。 海辺と公園に近い所に住むおかげですが、これも家賃のうちだと思うと少し得したような気分。 またこの次も来ようと思って、芝生から腰を上げたことでした。

(06/08/03)

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「豪雨の影響はスゴイですね」

P大兄

貴兄にメールしようしようと思っていながら、閑人ほど動きがにぶい通例の通り、ご無沙汰し、貴兄にまた先を越されてしまいました。 独り恥じ入っているところです。

長野往復13時間半のドライブは凄かったですね。 まあ途中で立ち往生することなく自宅まで帰りついたのは何よりでした。

実は、貴兄のメールに驚いた直後、教会の友達からのメールが転送されてきて、それがまた諏訪の土砂崩れの知らせだったのです。 この若い日本人のカップルは、日本でのビジネスのキャリアを打ち切り、、当地へ留学中。 神学大学院で勉強しているのですが、今は夏休み。 そこで奥さんの長野の実家に帰省したのですが、これが諏訪の近く。 実家も土砂崩れにあい、若い夫婦が預けてあった家財も泥の中。 保険も天災では填補しないでしょうし、泣くに泣けない事情のようです。

ところが、これは「天災」に非ずして「人災」ではないか?  実は先週話題の映画「AN INCONVENIENT TRUTH」をみにいったのですが、この映画の中で、アル・ゴアが「これから豪雨が地球上で頻発する」と警告しているのです。 この映画は日本でも上映中と思うのですが、日本語のタイトルは何と言うのでしょうか。

映画を製作している間にルイジアナを襲ったのが「カタリーナ」。 ところがニューオーリンズで多数の死者が出ているのに、ブッシュは関心を払おうとしない。 そこで側近がニュースを編集して災害の実態を見せたところ、ようやく4日後に腰を上げました。 そして能力も経験もない友人を災害救済対策のトップに起用。 閣僚クラスの地位だったようですが、これがとんだたわけ者。 議会でも問題になって一応辞めたものの、人災は広がるばかり。

ブッシュも、アル・ゴアを斥けて大統領になる前は、環境問題も公約の一つに挙げていたようですが、大統領になってからは、「京都議定書はアメリカにとってラウジー・ディール」と決め付け、環境問題の責任者に据えたのが石油業界の代弁者。 これでは鶏小屋に狼を送りこんだようなもの。 言うに事欠いて「虱のような『京都』」と言い放っては、泥水の中で死んでいった黒人達も浮かばれません。

このブッシュに同調するのが豪州のハワード首相。 カナダは前政権が「京都」に調
印したのですが、この2月保守党政権に代わると一転して「反京都」の姿勢。 産油地出身の若い女性を環境相に据え、環境政策は後退しています。

日本はどうでしょうか。 小池百合子という関学中退カイロ大卒の議員が当選回数を重ねて環境相をつとめているそうですが、どんな人かそれ以上のバックグラウンドは知りません。 イラクで日本人の男女が人質になった時、パウエル国務長官が若い日本人の献身的な行動を讃えたのに対し、ニューヨークタイムズによると、コイケユリコは人質を責める急先鋒だったと報じていました。 しかし小泉首相は改造後も彼女を閣内に留めたところをみると小泉首相は力量を買っているのでしょうね。。

貴兄には、小学校から大学まで、多数の同窓の友がまわりに居て、一発号令をかければすぐさま集まるのですから良いですね。 こちらの同窓会は、皆さん世代が若く、肩書きは現地法人の社長とか頭取といったエリート集団。 世捨て人には縁がありません。 私も一回だけトロントの同窓会に出てみましたが、校歌に代わる応援歌を歌う時私の歌詞はあやふやでした。 愛校心も愛国心もあやふやです。 だからと言って、カナダに愛着心があるかというと、そこはやはり「日本人」の血が燃えます。

湘南の風はよそより涼しいでしょう。 どうかお元気で。 (06/07/22)

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P大兄

奥様が逝かれて一ヶ月と一週間。 お取り込みの間はご親戚や友人の往来もせわしかったでしょうが、今は人の波も潮のように引いて、幾分静かになられたでしょうか。

私は30年以上前、イギリスからカナダに渡る時、船で一ヶ月旅したのですが、船中でいつも同じ食卓を囲んだ一人の老紳士がいました。 背丈は私と同じくらい。 そ
の時は私よりかなり年長者だと思ったのですが、今考えれば、現在の我々よりも若かったのかもしれません。 奥さんを亡くされての独り旅でしたが、1500人の乗客の中には、そういうイギリス人の鰥夫も結構居ました。

或る晩食事の後で、部屋に招じられたのですが、船室のドアを開けながら、「妻に会ってください」と言われます。 部屋には、奥さんの大きな額入りの写真がありました。 「私が部屋に帰ってくると、ああして、いつも笑顔で迎えてくれるのですよ」と言います。 私は感動の胸を抑えることができませんでした。

その船は、3ヵ月かかって世界を一周するクルーズでしたが、その人は奥さんと死に別れてから、毎年クルーズに独りで参加していると言っていました。 乗客の殆んどは高年のイギリス人の男女でしたが、独身の人が多く、皆さん似たような運命で同じ船に乗り合わせたのかもしれません。 30年前の初老のイギリス人というと、特に男性は、渋い魅力の人が多かったように思うのですが、今はどうでしょうか。 私達と初めて出会っても「外国人」という表情はついぞ見せませんでした。

私も、船の旅、鉄道の旅、運河の旅と振り返ってみると、途中の観光地とか食事よりも、行きずりの人達との触れ合いがいつまでも記憶に蘇ってくるように思います。

このバンクーバーからも、アラスカやハワイ、パナマ方面に向けて、クルース船がいつも夕方出航しています。 往復一週間ぐらいのスケジュールのようですが、遠くから飛行機で飛んできて乗り込む観光客が多く、暫し憂き世を離れる楽しみに人気があります。 私達はまだ乗ったことがありません。

(06/07/06)

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「イノさんへの私信: 時代の移り変わり」

新卒の人達が憧れるトップ経営者についてのお話に、時の流れを感じました。 

私が学校を出たのは昭和31年でしたが、あの頃人気があったのは東レでした。 私は文科でしたから就職には関心がなかったのですが、レーヨンの企業がどうしてナンバーワンなのか、詮索もしないままでした。 しかし優秀な若者が当時同社に集まったものです。 あれから50年。 あの俊秀達はどうなったか。 彼らが支えた日本一の企業はどう発展していったのか。 今になってみると話を少し聞いてみたい気がします。

その頃松下と言えば、新卒でも望みの高い人は同社を第二志望にランクし、関西の人でも、同社製品に対する評価は今ひとつだったと思います。 まだ同社が負債を背負っていたからでしょうか。 あの頃、既に松下さんは、電化製品を水道から流れ出る水のように流通させたいという夢を語っていましたが、その通りになりましたね。


その頃大阪でロータリーの全国大会が開かれ、私の父も出席したのですが、ホスト役とおぼしき腰の低い老人がいたので、「この度はお役目ご苦労様でございます」とねぎらったところ、そのロータリアンも父の胸の名札をみて、「これはこれは鹿児島からお越しでしたか」と挨拶を返されます。 そこでその方の胸を改めてみたら、「松下幸之助」とあったと父が語っていました。

それから5年位経った頃かと思いますが、タイムの表紙に松下幸之助の、やや愁いを帯びた表情の画が出ました。 私の知る限り、日本人でタイムの表紙になったのは松下さんが初めてだったように思いますが、当時の日本の若者よりもタイムの編集者の方が、松下さんのたぐい稀なリーダーシップを見極めていたのですね。

今は、レバノン系のブラジル人で、フランスのキャップをかぶるゴーンさんが、若者の評価するトップ経営者ですか。 この人については何も知らないのですが、文化も言語も違う環境で、古い伝統の日産自動車を立て直したのですから、天才的頭脳と実行力の持主でしょう。 しかし、フランスが外国のバックグラウンドを持つ人物を日本に送り込んで成功したというのも面白いですね。 イノさんがフランスのサッカーチームは黒人選手を主体としていたと指摘されていましたが、「国境なき医師団」が第三世界で活躍しているそうですね。 国境なき経営者や運動選手も、これからは主役を演じる時代がやってきたようですね。

日本の「国際化」が取り上げられてからもう20年以上になりましょうか。 人材の国際化は進んでいますか。 バブルの興奮がまだ冷めやらぬ頃、日本の会社や銀行から派遣されてアメリカのビジネススクールに学んだ若きエリート達が、「もはやアメリカから学ぶべきものは何も無い。 日本が保有するアメリカの公社債を引揚げたらアメリカは忽ちお手上げだ」と発言したことがビジネスウィークに伝えられていました。 彼らが日本の復興に特に寄与したわけでもないのに、若い世代特有の傲りだったのでしょうか。 最近トヨタのトップが「トヨタの社員の驕りが将来心配だ」と発言していたと聞き、イノさんと同じ警世の憂いを共有されているように感じました。
 

もう30年以上前になりますが、ある日本の作家が「ヨーロッパに居る日本人は蠅のようなものだ」と発言したことがありました。 その頃私もヨーロッパに居て、その文明に貢献することなく、ただ熟した果実に食らいつく蠅の一匹だったので、忸怩たるものを覚えました。 それでまだ新参者を迎えてくれるカナダに移ってきたような次第です。
 
次は中国の若者の番がやってくるでしょうか。 時代はドンドン移り変わりますからね。    (06/07/04)

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「イノさんへの私信: そぞろ歩き」

文京区の閑静な通りを熟年のグループが散歩する様子がみられるとのこと。 本郷を中心とする辺りには、文学散歩を楽しめるコースが沢山あるのでしょうね。 漱石の文章の中にも、千駄木とか西片町十番地とかの地名が出てくるので、十番地とはどこにあるのかと行ってみたのですが、地図で見ると一つの町に匹敵するほどの広さだったので驚いたことがありました。 漱石とか一葉を始め、明治大正の文豪や学者が暮らしていたのでしょうが、戦災に会ったのかどうか。 そういうことを思い出しながら杖を曳いてみたいというのが私の昔からの念願だったのですが、時間の許される今は、遠く異郷の空の下。 夢は夢として憧れながら保っていくべきものなのかもしれません。 

先ほどうたた寝をしている時に、字をペン軸に刻まなければならない羽目になった夢を見ました。 その時に、記念の「念」という字がどういう筆順だったか戸惑ってしまい、自信が無くなったところで目が覚めました。 ワープロにばかり頼っていると、本当に字を忘れてしまうものですね。 イノさんのように、手書きのロングハンドで書く意義は大きいと痛感しました。 英語人の著作家や学者の中にも、パソコンはおろか、タイプライターも使わず、長い線入りのイェローパッド用紙で、著作やエッセーを書く著名人がかなり居るようです。 ピアニストが指に曲を暗譜させるように、ロングハンドで綴るうちに思考が熟してくるのでしょうか。

平成のパソコンに頼っていると、明治や大正はますます遠くなりにけりです。

東京の若い友人が「ぶらり途中下車の旅」というDVDを送ってくれるのですが、おかげで椅子にすわったまま都内や近郊のぶらり散歩を楽しむことができます。 文学散歩のような趣向ではありませんが。意外な美味しい出会いが多く、いつも若くて古い東京の良さを見直すことになります。 同じ友人から「散歩の達人」という雑誌も送ってもらっていたのですが、これにはタイムトンネルを通り抜けるような文学散歩もあり、東京生まれでもなければ東京育ちでもない田舎者でも、郷愁をそそられるものがありました。 特にその編集スタッフの面々が筆で描く筆致がピチピチと新鮮で、若い人達の語り口が魅力的でした。 この友人から恵送のビデオや雑誌をいただくようになったのは、私がまだBBCにいた頃ですから、もう何十年になるでしょうか。 それでいて、会ったのは五年前、その人の仕事の合間を縫って、三ノ輪の珈琲店でほんの三十分だけ。 私とは親子ほど年が違うのですが、そんな深くて長い付き合いを続けてくれる天然記念物的人も居るのですね。 これも短波放送のとりもつ不思議な縁です。 そうそう、その人も、博識多才ですが、パソコンやワープロには手を出さず、いつも手書きのキチンとした筆跡で便りをくれます。     
(06/07/03)

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「友への私信: 1万円の食事」

大福の老舗の仔細を早速お調べの上お伝えいただき有難うございました。 東京も大震災、大空襲と、幾度も全滅に近い災害を経験したのですが、その度に見事な復興を遂げて、名のある名店が何代も伝統の灯を守っているとは、嬉しい心意気ですね。

それにしても、一回の食事が一人前一万円を軽く超えるとは、さすが日本ですかね。 バンクーバーだったら、その四分の一もするでしょうか。 クィーンエリザベス公園に、クリントンとエルツリンが会食したレストランがありますが、そんな最高の所でも、二人で五十ドルも出せばお釣りが来るでしょう。 それは、味もサービスも、日本の四分の一程度でしょうが。 

十五年前に、新宿のデパートに集まった小学校の同窓会の時も、会費は一万円を超えていましたから、それから年月が経った割には、余り値上りしていないとも言えるかもしれませんね。 日本の汽車弁は一万円するのがあると読者から便りをもらったのは何年前だったでしょうか。 

ウォーレン・バフェットという富豪のことは知りませんでしたが、フォーチュンやフォーブスにはしばしば登場したのでしょうね。 「美田を残さず」とは西郷南洲に共通した哲学かと思いますが、カナダの横断鉄道で出会った婦人を思い出しました。 ヨーロッパから移住してきて、艱難辛苦の末、今日の財を築いたのでしょうが、
「オタワの郊外に広い土地を持っているけれども、子供達には残さない。 すべて社会に還元する心算」と語っていました。 以前アメリカで相続税を緩和せよという議論があった時、テレビで反対の意見を述べていたのは、ビル・ゲイツの父君とロックフェラー一族の比較的若い人でした。 

サッカー談議に関連して、ある方から投書をいただいたことがあります。 「サッカーの選手が、ダッコチャンよろしくフィールドで抱き付くのは醜態だ」と嘆いていましたが、あれはやはり海外からの輸入でしょうか。 ボートレースの後で舵手を隅田川に投げ込むのもテームズ川の慣わしを真似たもの。 「ついでに審判も紅毛の鬘をかぶったらよい」とある教授が書いたら、ボート部学生の逆鱗に触れたことがありました。 もっとも最近はこちらの新聞にも「TANKAN」という言葉が出るようになりましたが、あれは日銀の「短観」がそのまま英語の記事に輸出されたもの。 日本的お辞儀の習慣もそのうち広まってほしいものですね。   (06-06-29)






Qさんへ

驚きました。 アパートの玄関のブザーが鳴り、インターコムで、「郵便物の配達です」と言う声が聞こえてきます。 急いで降りて玄関に行くと、郵便配達人が大きな小包を持って待っていました。 それが貴兄からの予期しない贈り物でした。 ビックリしました。 感謝とともに受け取りました。

待つのももどかしく、早速丁寧に包装されたパーセルを開いてみると、ビデオが三本。 それも「会議は踊る」とか「望郷」という、名前は聞いたことがありますが、私にとっては幻の名画。 「七人の侍」は見たことがありますが、ビデオに記入された数字で、「あぁ、あれはまだ学校に通っていた頃だったか」と懐かしく思いました。 それ以来もちろん見る機会はなかったのですが、このビデオで昔の感動が再現するのかと楽しみです。 独仏の名画にいたっては、七十年前の作品。 宝島で宝石の入った宝箱をみたような感じです。 本当にありがとうございました。

その後、お仕事と奥様の健康はいかがですか。 暑さも増し、涼風が恋しくなる時節ですが、千葉の方は東京よりしのぎやすいのでしょうか。 バンクーバーも、天気予報によると、29度から31度と言うことですから、扇風機をかけて、室内の空気を掻き回さなければなりません。 

浦安にお住いの頃は、潮風が吹き抜ける街で、よかったでしょうね。 日本からの短波放送で、金子よしえさんというアナウンサーが、浦安の素晴しさをリポートしているのを聴いて、大東京の間近にそんな理想郷があるのかと、羨ましく思ったことがあります。

私は、晴海の単身者用アパートに暫く住んでいたことがあるのですが、あの頃は、足が海の方へ向かず、バスでいつも服部の時計台が斜め前にそびえる銀座四丁目のバス停まで一っ走り。 公団のアパートでしたが、部屋の広さは四畳余り。 明るかったのですが、海辺にはセメントの工場がそびえていて、潮風どころか絶えずセメントの酸っぱい粉塵の匂いが漂っていました。 今思えば、あの頃月島とか佃に近かったのですから、下町の風鈴が聞こえる露地を歩いて情緒を探索すればよかったと、残念です。

カナダの西部は、アルバータのオイルサンドの開発、それに後四年後に冬季オリンピックを控えたバンクーバーも、猫の手でも借りたい程の建築ブームです。 ついこの間までは、求人広告に二百人もの応募者があったのに、今は二人の問い合わせがあればいい`方。 それでも、失業十年になる私には、どこからも声がかかってきません。 それどころか、最近とみに英語の理解力が衰えてきて、仙人といえば聞こえがよろしいが、知的廃人に近くなってきたことを情けなく思っています。 

このところオシッコが近くなったので、泌尿器科の先生に診てもらったら、前立腺肥大との診断。 八月にレーザーの施術を受けることになりましたが、今までは、映画館に行っても、途中抜け出してはトイレに駆け込まなければならなかったので、治してもらえるのが楽しみです。 目の方は、鍼を続けているのですが、なかなか好転せず、はかばかしくありません。 まあこれも老人になったしるしですから、半ば観念して鍼を続けることにします。

この一週間ばかり、国連の「都市の住まい」についての会議がバンクーバーで開かれましたが、世界中から都市開発に関心のある専門家やアマチュア達が集まりました。 そしてバンクーバーが「歩いてどこへでも行ける街」ということが会議の話題になったようです。 そういえば、私達も、買物も散歩もすべて徒歩。 車には滅多に乗らなくなりました。 自分では意識しなかったのですが、これで我々も時流に乗っかった暮らしをしているわけだと、自己満足にひたっています。 

シゲより     (06-06-24)

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Aさんへ

コンピューターの時代にあって、珍しく貴重な封書を頂戴したので、「何事ならん」と封をあけたのですが、そうでしたか。 お手許のコンピューターの修理が手間取っているとのこと。 心からご同情申し上げます。

どうして日本の一流メーカーの製品が故障するのでしょうね。 そういえば、インターネットの新聞の見出しに、アメリカの自動車団体が、品質の点では、韓国の現代の車がトヨタを抜いて、高く評価されたとありました。 一位はポルシェ、二位がトヨタのレクサス、三位が現代で、トヨタの他の機種は四位。 ホンダは六位とのこと。 

こちらの電化製品の店では、横長のテレビも、なじみの薄い韓国製品と中国製品が日本の東芝やパナソニックを抑えて、目立つところに陳列してあります。

そこで思い出したのは、1969年ロンドンで、初めて車を買った時のことです。 まだソニーやパナソニックが怒涛のように英国市場に雪崩込むちょっと前でしたが、当時も在英の日本人達も、イギリス製品なら上等舶来と崇拝していました。 イギリスかぶれの私もそうでした。 ですから知り合いの日本人の車も当然オースティンとかその他のイギリス製。 戦後の日産は、オースティンと技術提携して、本格的な乗用車生産に乗り出していましたからね。

ロンドンのディーラーをのぞいてみると、ショールームの一隅に、トヨタのコロナがありました。 日本では既にマーク2が走っていたのですが、そこにあったのは、それより旧式のダックスタイルです。 家族と相談してそれを買ったわけですが、日本人同僚に話すと、「アッと驚く為五郎」という反応が返ってきました。 為五郎とは何のことか判らないのですが、意外な選択と受け取られたのでしょう。 日本製品は「安かろう悪かろう」という先入感がまだ日本人にも沁み込んでいたのでしょう。 その頃は、日本大使館からの要望として、「在留邦人はすべからくテーブルクロスのかかっレストランで食事すべし」というお達しがあったとか、嘘の様な話も聞きました。

しかし、その直後、1970年頃から海外旅行が自由化され、円高も手伝って、ロンドンにも「オペア」と称するお手伝い志望の大和撫子のお嬢さん達がドッと押寄せました。 そしてピカデリーサーカスのキューピッド像の辺りにたむろするようになりました。 

それにドブ鼠色の背広に、眼鏡にカメラの日本人。 それは私自身の姿でもありましたが、さらに加えて肩から「キンキ・ニッポン・ツーリスト」のショルダーバッグをさげている人もいます。 ロンドンっ子達は「なんじゃぁ、ありゃぁ」と目を剥くのですが、近鉄の人も「キンキ」の意味するところは昔から十分ご存知だった筈。 まさか今でも同じバッグを客に配っているのではないでしょうね。 長い間の渡航禁制がとれて、海外に繰り出した日本人の群れをみて、イギリス人は「まるでレミングのようだ」と驚いていました。

話が逸れましたが、コロナに決めた後で、そのディーラーのマネジャーが、「実は、私も同じ車を使っている。 とても調子がよい。 それに比べて、このイギリスの車はどうだ。 見てくれはいいが、中味はこの通りスカスカだ」とボンネットを開けて空きの多いエンジン廻りを見せるのでした。

自分が持っているのなら、早くそれを言えば、買い手の気持にも弾みがつくのにと思ったのですが、それを敢えて言わないところが、古いイギリス人気質なんでしょうか。 それとも「客が自分の気にいれば、買わせてやろう」という、ズボンのポケットに手を突っ込んだままの、当時のイギリス的セールスの延長だったのでしょうか。
  

それから暫くして、コロナを整備工場に持って行ったのですが、そこにいた中年のイギリス人の客が、「その車はどうかね」と話し掛けてきました。 「まあまあだ」と応えると、「私の車はイギリス製だが、この頃の英国車は、どうして故障ばかりするのだろう。 昔はイギリス製というと、信頼がおけて、こんなことは無かったものだが。 私もこれからは日本車に切り替えることにするよ」と憮然とした表情で語っていました。

その頃です。 イギリス議会で、議員が「メード・イン・ジャパン」について発言していました。 「昔は、日本製というと、品質が悪いから、消費者が用心するように『メード・イン・ジャパン』の表示をつけさせたものだ。 ところが今は『メード・イン・ジャパン』というと、品質が良い証拠だと消費者がこぞって買うから、これからはその表示を止めさせるようにしよう」と。

カナダでも、ついこの間までは、韓国製というと、「お粗末」の代名詞だったものですが、この頃はコンピューターに詳しい日本人でも、「”サムスング”、これが今世界で一番良いモニターだ」と迷わず即座に買います。 

韓国の「日本に追い付き追い越せ」は意外に早く実現したのですね。

来月はポーランドのアウシュヴィッツ詣でですか。 以前のサイパンの SUICIDE CLIFFの検証といい、本当にスゴイことですね。 貴兄のたくましい精神力と体力、そして経済力と、その精気に満ちた生き方にはつくづく頭が下がります。 これがまた紀行文やエッセーとなって文字に文章に再生されることでしょう。

奥様の健康が少しずつ上向いているとうかがい、喜んでいます。 貴兄も来月の旅行にそなえて、英気を養ってください。

シゲより   (06-06-08)

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「高くなったガソリン」

イノさんへ

カナダもガソリンが高くなりました。 リットルあたり$1.20ですから、ようやくヨーロッパや日本の水準に近付いたということでしょうか。 アメリカでもガソリンの値段が高騰して政治問題化していますが、それでもカナダドルに直すと、リットル88セント。 カナダのドライバーからみれば、羨ましい値段です。

ガソリンが上がっても、燃料を食うSUVの売れ行きは衰えないと伝えられてきましたが、ここへ来て、少しその勢いが鈍ってきたようですね。 

SUVの売上げは、アメリカの三大メーカーを支えてきた車種ですが、その売上も今は下火。  かつては3位を守ってきたクライスラーもトヨタに抜かれ、あとヨーロッパ勢や韓国車が追い討ちをかけています。

しかし、そうした自動車メーカーのトップの報酬は、アメリカが群を抜いているそうで、アメリカのトップ経営者の年収を 100 とすると、ドイツのトップはその 60%。 日本は 18% だそうです。 ということは、トヨタの社長の年俸は、GMやフォードの社長の六分の一ということになりますかね。 

しかし社員の給与は、GMもトヨタも、大差ないのでしょうから、日本では平社員とトップの給料の差が少ないということなんでしょうね。 奥ゆかしいことだと思います。

やはりGMやフォードの話ですが、かつては、一人のリタイアリーを支える現役社員が何人もいたのに、今では、3人のリタイアリーに対して1人の現役しかいないとか。 アメリカのトップ企業も、年金危機に襲われているわけですが、会社が面倒をみている会社単位のプライベート医療保険も、リーアイアコッカの自伝によると、経営者自体が首を傾げるほど潤沢なものだったようですね。 これも年金と同じく、削減の運命に迫れれていることでしょう。 寄らば大樹とは、生命保険の外交員募集の謳い文句にとどまってしまうのでしょう。 私のなけなしのCBCの年金も怪しいものです。

50年前、まだプロペラで空気をかきまわして旅客機が飛んでいた頃、言い古された話ですが、一等でカクテルを飲んでいたのはアメリカ人。 日本人はエコノミーで書類と睨めっこ。 それが平成になると、日本人が一等で、韓国人がエコノミー。 平成も二桁になると、豊かな日本では役付きでなくても、ビジネスクラスで出張だそうですね。 そういえば、たまにアップグレードしてもらってビジネスクラスに乗ってみると、なるほど若い日本人の男女が結構すわっていますね。

私が20年前成田に飛んだ時、エコノミーの近くの席で書類に目を通していた初老のカナダ人がいました。 東京に着いてカナダ大使館のレセプションに出てみると、その人がいて、話してみるとどこかの国の大使でした。 当時はBC州の大臣でも近距離はエコにミーでしたが、遠距離は一等。 バンクーバーからオタワへ飛ぶ時、一等の切符をカウンターでエコノミーに交換し、差額をポケットに入れた大臣がいました。  脚の長い人でしたが、英語圏の奨学生ロードスカラーとしてオックスフォードに学んだのですからクリントンなみの優秀な人だったのでしょう。 しかしボスは高校中退のビルベネット州首相。 インテリが嫌いだったのかもしれません。 発覚すると即刻クビになりました。 それからの消息は聞いていません。 調べに当たった警察も、「こんな取るに足らない10セントばかりのことで」と気の毒がっていました。 
正直なことで定評のある日本人でも、サラリーマンの出張旅費をグリーン車から普通車に変更して倹約分を浮かすぐらいのことは許されるのでしょうが。 しかし偉い人にはやはり李下の冠が大事なのでしょう。

シゲより     (06-05-09)





「おらが村のコマーシャルで恐縮ですが」

イノさんへ、

お犬様の渡航費がUS$6000もしたとは!  チェリストが旅行する時は、チェロを脇の座席に置くので、二人分の料金を払わなければならないそうですね。 同情します。

4月も半ば過ぎてちょっと汗ばむような陽気になると、あちこちで、ブンブンと芝刈りの音が響きます。  

私は、70を機に、自分で芝を刈るのを止めました。 あれは、タンポポ退治も加わって、中々の重労働です。 昔は、非熟練移民の日本人の仕事とされていたのですが、9年前にバンクーバーに戻ってきたら、まわりの中国人の家では、どこも皆白人に芝刈りをさせています。 アジア人と白人の立場が逆転したのには驚きました。 そこで私も芝刈り専門の会社に頼むことにしました。 すると、白人の青年達が代わる代わるやってきて、肥料まで施してくれます。 ですから、芝も上質になりました。

ところが今はアパート暮らし。 芝刈りの心配からも解放され、ドアをノックして寄付を集めにくる人達とも無縁になりました。

昨日のニュースでは、都市のプラニングの権威、アメリカ生まれのジェーン・ジェーコブさんが亡くなったことを、その哲学とともに伝えていました。 高名な存在だったのに、私は全く知らなかったのですが、どうも、その理念を聞いていると、私が今住んでいるウェストエンドはそのショーケースではないかという思いがしました。 道路は格子状になっているのですが、車では真っ直ぐ通り抜けられない十字路が方々にあります。 道の途中から小公園になっていて、植え込みや花が咲いています。 高層ビルの合間を縫う車道は狭く、歩道は広い。 安全で静か。 街路で見かける人達も、まわりに気をつかってヒッソリ暮らしている感じ。  それでいて、半ブロック先は、市内でも有数の繁華街。 あらゆる種類の店が揃っていて、観光の中心となっています。 反対側に強肩の人が球を投げれば、夕陽の映える海の砂浜へ。 ホームランをかっ飛ばせば北米有数の森林公園スタンレーパークに入ります。

「どうもここは住みやすい。 サイズがピッタリの服に手を通したみたい。 どうしてだろう」と思っていたのですが、ジェーコブさんを追憶してニュースに現われたバンクーバーの元市長が、「彼女の哲学に共鳴して、都市開発を手直しし、町のど真ん中を走るハイウェイのプランを取り止め、外で食事の楽しめる街造りを心掛けた」と回顧していました。 理想家肌のトロントの元市長も、同じように彼女の影響を讃えていましたが、トロントよりはバンクーバーの方が気候も環境も勝れているのではないかと愚考します。 強弁すれば、ここは世界一住みやすい町。 その中でもウェストエンドが最高。 「こういう場所の一角に終の棲家が得られたのはラッキーだったなあ」と自己満足で独り合点したことでした。

シゲより   (06-04-26)

* * * * *




イノさんへ

私の見た映画は、「ブロークバック マウンテン」という題で、「クラッシュ」ではありません。 そのうち「クラッシュ」もまわってくるだろうと思いますので、その節はまた観にいきたいと思います。

「ブロークバック マウンテン」はカラーのはずなんですが、私の目には、曇りの日に黒眼鏡を掛けたような按配で、画面は、大自然も含めて、暗い色調でした。 登場人物の金髪も白髪に見える始末。 おまけに、台詞が南部の訛りとあって、とても筋を追うことが出来ず、残念ながら楽しめませんでした。 

我が家のテレビは、大分前に買った中国製の13インチですが、一応色は見えます。 音はモノラルですが、イアフォンの方が聞きとりやすいので、片方の耳で聴いています。 私が観るのは、ニュースとインタビュー番組ですが、75才に手が届くと、ヒアリングも理解力も格段に落ちることを痛感します。

バンクーバーに住む弟が、「プラズマを買ったから見に来い」というので出かけたのですが、42インチ、今流行りの横長の画面で、中国製の1,700ドル。 韓国製の方が高く、日本製はさらにもっと高いそうです。 中国製でも十分と思えましたが、なるほどうちのテレビに比べて格段に見やすい。 しかし所詮私の目には猫に小判。 それに年寄りには重過ぎます。 たまには掃除のために動かさなければならないこともあるでしょうから、もし買うとしたら、プラズマでなくて手軽な液晶の方が無難かなと思いました。

イノさんは私より5才お若いのですが、気力迫力は一まわりお若い。 12才の違いがあります。 私達も、教会でのベーグルサービスで、5年前は、朝昼晩と3回のサービスに茶菓を出していたのですが、今は朝9時から午後2時まで。 「あの頃はまだ若かったんだなあ」と「老いやすし」の溜め息が出ます。

もしカナダの平均寿命が私にもあてはまるとすれば、後3年。 BC州の男性は、カナダでは一番平均寿命が長く、80才強だということですが、そうすると後5年あまり。 「無事是れ貴人」だそうですから、私も貴人にあやかって、無事のうちに行く末を過ごし、ピンピンコロリで参りたいものだと、そう願う次第です。

仕込み杖をイギリスの骨董店でみつけられたとのことですが、イングランドの骨董店巡りも面白い旅でしょうね。 私は20年以上前、ケベックシティに行った時、ちょうどカーニバルのシーズン。 冬のさなかです。 目抜きの通りを、ブラスバンドを先頭に長いパレードが行進するのですが、トランペットなどの金管楽器が、よく唇に凍りつかないものだと思いました。 道路に並ぶ市民の中には、仕込み杖を抱えた人が多く、そこからお酒を飲んでいました。 零下20度でしたが、「今日は風が無いから暖かい」と言っては、ぐい飲みをして、凍てつく謝肉祭を祝っていました。 

イングランドの古い町やフランスのプロバンスをまわって、骨董品を仕入れて、日本に持ち帰れば、結構お客がつくでしょうね。 ニューヨーク州の知事や副大統領をつとめたネルソン・ロックフェラーは、まだ学生だった頃、ニューイングランドの田舎の古いコロニアル風の家を訪ねては、古い家具を買い集めていたということですが、若い時から目端がきいていたのでしょう。

あるバンクーバーの知人は新潟の出身ですが、リビングルームに、裏日本の田舎で買ってきた等身大の仏像を、リビングルームの暖炉の脇に飾っています。 「カナダの友人達の垂涎の的でね」と笑っていましたが、日本の片田舎にも、結構隠れた美術品がまだ多く眠っていることでしょう。

哲郎の妻のバハレの叔父さんは、イラン、フランス、カナダの三つの旅券を持って、フランスから骨董のグランドピアノやギリシャ風の円柱など仕入れてきては、トロントで売っています。 日本にも度々行くようで、初対面の折「いらっしゃいませ。ようこそ」と挨拶されたのには驚きました。 トロントの北にミニ宮殿のような家があり、昔イランで若く貧しかった頃バハレの親に世話になったからと、恩返しの意味で、哲郎達の結婚式を自宅で行ってくれました。 ちょうど夏。 西瓜の季節でしたが、「イランでは、西瓜のことを『ヘンダワネ』というが、日本でそう話すと大笑いになる」と笑っていました。 そんな人でも、ラスベガスにホリデーに行こうとすると、旅券に出生国が「IRN」とあるので、トロント空港で、アメリカの移民官に入国を拒否されるそうです。 

シゲより   (06-04-12)



冠省  今年は日米交流が始まってから150年だそうですね。 4隻の黒船が浦賀沖に現れてから1世紀半。 考えてみると実は私もその時代の半分近くを生きてきたわけですから、今更光陰人を待たずの感を深くします。 ペリー提督が、捕鯨船の寄港を理由に、砲艦外交で開国を迫った日米関係は、初めから平等を欠いていたようです。 その90年後に、国民学校で、「鬼畜米英」の不平等条約と在米日系人に対する差別の話を聞いて、少国民は切歯扼腕したものです。 そして真珠湾の戦果に沸いたのも束の間。 ミッドウェー海戦を機に国運が翳り始め、やがて原爆投下。 そして終戦。 ペリー提督の黒船に翻っていた同じ星条旗を掲げる戦艦ミズーリで、降伏文書に調印。 米軍の進駐とともに、我々世代の新しい国際関係が始まりました。 


嘉永年間、丁髷を結った我々の祖先は「アメリカの技術に目を見張った」 とアメリカ人は記述しますが、それはそうでしょう。 しかし咸臨丸で訪米した使節一行は、既に蘭学で西洋の技術に通じていたので、別段驚くことはなかったようです。 それより魂消たのは、諸肌脱いだ淑女が男性と取組んで広間を跳ねまわることだったそうです。 ですから、1854年に日本に持ち込まれた超小型の機関車をみて、1870年には日本人の手でフルサイズの鉄道をこしらえたのには、アメリカ人の方が驚いたでしょう。 

19世紀の後半始まった日本の産業の近代化は、やがて国富と軍事力をもたらします。 あわせて憲法を制定し、資本主義を導入。 明治日本は、中国及びロシアを破り、軍事大国として東亜を制圧。 欧米の列強と肩を並べる存在となりました。

しかし日本のアジアにおける覇権を脅かす米国艦隊を、日本海軍が真珠湾に先制攻撃したのが、昭和16年12月8日。 アメリカにとっては、この日が、2001年の9月11日とともに、忘れ得ぬ決定的瞬間となり、その傷は今後幾世代経っても、拭い切れないことでしょう。 

戦後日本の「将軍」となったマッカーサー元帥は、平和憲法を残しましたが、同時にアメリカの核の傘のもとで日本を護ることにしました。 さらに朝鮮動乱の特需のおかげで、日本の産業は息を吹き返し、1970から80年代にかけて、低価格高品質のテレビや自動車で、アメリカに貿易戦争を挑みます。 第二次大戦当時、世界38位だった日本経済は、首位の座をアメリカと争うようになりました。 東京の皇居の価値がカリフォルニア全体よりも高いと言われ、アメリカの富の象徴・ロックフェラーセンターを買収したのもその頃です。 日本の対米貿易黒字は、1994年には650億ドルに達し、米国政府・議会はアンフェア・トレードと非難。 職を失ったアメリカの労働者は日本に対する憎悪を募らせました。 

しかし突如予期していなかった日本のバブル崩壊が始まり、日本企業は戦術転換を余儀なくされます。 一方アメリカは、ソフトウェアとインターネットの分野でバブルが始まり、巻き返しに出て、貿易戦争は終了しました。 更に日本がイラクに自衛隊を派遣したので、日米政府の関係は今までになく良好なものとなっています。

それでも時代の潮流は絶えず変わります。 日米経済の覇権に、いずれ新興諸国が挑む日がやってくることでしょう。 現在世界のGNPのおよそ半分は日米両国で産み出しています。 敗戦で資産の70%を失った日本が世界第2の経済大国になったのは1970〜80年代。 「追い付き追い越せ」のジャパン・インクがアメリカを脅かす存在と恐れられたのもその頃。 また日本の海上自衛隊は、太平洋水域で、アメリカに次ぐ第2の海軍戦力でもあることは、知るひとぞ知るところです。 それに加えて、日本のイラク派兵は、かねて日本のことを、土俵に上がらない観客とみなしてきた世界の認識を変えつつあります。

日本はバブル崩壊後、「失われた10年間」に、金融や産業の分野で幾つかの失点を重ねましたが、ようやく銀行の不良債権問題も片が付き、工業生産の能力やノウハウも健在。 再び飛立つチャンスは近いものと、海外ではみています。

ただ日本の人口の老齢化による労働力の不足が将来のアキレス腱。 10年後には日本の30才以下の労働人口の25%が失われるという見方があり、一方アメリカではアウトソーシングによる失業が問題になっています。 日本の中国への投資はアメリカの5倍に達しているそうですが、アメリカの場合は、対中投資がアウトソーシングを招いています。 一方日本の場合は、中国の労働力を利用することが、自国の労働力不足を解消するのに繋がっています。

しかし米国駐在の日本の銀行家は、「日本経済にとって、中国は、必ずしも不可欠な要素ではない。 現在の中国のGDPは1986年の日本のGDPに相当するが、一人当たりのGDPになるとまだ1,000ドルで、1956年当時の日本の水準。 日本は現在30,000ドル。 ただし日本の銀行の現状をみると、その総融資額はGDPを超えている。 これに対して、アメリカの総融資額はGDPの30%。 ということは、日本の資本市場の成熟がまだ不十分で、日本の産業の資金調達法に選択の余地が少ないことを示している。 日本は、アメリカのリスクに立ち向かう経営姿勢からもっと学ぶべきだと思う」と発言しています。

貿易では日本が出超を続ける日米関係ですが、文化の交流となると、関係は逆になります。 日本で最も人気のあるスポーツは野球であり、食文化ではマクドナルドとコカコーラが米帝国主義の象徴。 若者の感性を痺れさすロック音楽もまた然り。 しかしこのアメリカ一辺倒の流れにも、変化が起こっています。

今アメリカの幼児から少年達までの心を掴んでいるのは、任天堂であり、ポケモン。 それに加えて「千と千尋の神隠し」は大人までも取り込んでしまいました。 世界のアニメの60%を制作する日本は、ハリウッドからニューヨークまで席捲。 マンガも、子供のみならず、文化批評家も注目する「ソフトパワー」の社会現象です。 


150年の日米交流は、兄貴風を吹かすアメリカが弟分の日本をリードする形できましたが、もうそろそろ関係が見直されてもいい時機。 10年後にはどんな間柄になっていることでしょうか。   草々 (2004/04/06)




冠省  現在のアメリカは、経済成長も4%と上向きで、株価も過去15ヶ月の間に40%上昇、トップ経営者も空前のボーナスをとっていると、ブッシュ政権の描くアメリカは、ばら色の世界のようです。

しかし、一国の経済と民主主義の根幹となるアメリカのミドルクラスは、それとは反対に、ばら色どころか、灰色の壁に押し付けられ、かつてない窮状に追い込まれています。

アメリカやカナダの郊外には、芝生のひろがる新しい住宅が並び、ダブルガレージの前にはSUVが停まり、スポーツクラブの練習に出かける親子がドライブウェイから滑り出していきます。

一見豊かにみえるアメリカやカナダのミドルクラスの一こまですが、一体どうして、そしてどんな具合に、内情が苦しいのか。 ハーバードのエリザベス・ウォレン教授の見解を、少しご紹介してみたいと思います。

ウォレン教授によると、2010年までに、ミドルクラスの7軒に1軒は、破産することになるだろうというのです。

現在でも、心臓麻痺になる人の数よりも破産する家庭の方が多く、大学を今年出る卒業生の数よりも、破産に追い込まれる家庭の数の方が多いのだそうです。 そして、15秒に1軒の割合で破産が生じているとのこと。 今年は、破産家庭の子供の数が、離婚家庭を上回るということです。 こんにち破産宣告を受けるケースの90%以上は、ミドルクラスの家庭です。

今年アメリカでは160万の家庭が破産。 ホームローンが払えなくなって、住む家を失う人の数は、前の世代にくらべて、3倍に増えています。

まして破産一歩手前の家庭は、無数にのぼります。 破産を避けようとして、カウンセリングをうけている家庭は、900万戸だそうです。 

今は夫婦共稼ぎの時代。 そのミドルクラスが、なぜ30年前の両親よりも経済的に苦しいのか。 1970年代の初めまでは、普通外に出て稼いでくるのは、父親だけだったもの。 それで家族を養い、子供を育て、学校にやれたのに、今の共稼ぎ家庭は、経済的に崖ッ縁に追いやられ、しかもそこから落ちていく人が増えているのは何故か。

それは確かに収入は増えました。 30年間のインフレーションを考慮にいれても、現代のミドルクラスの稼ぎは、一世代前に比べて、75%増えています。

では、今のミドルクラスの生計を圧迫しているものは何か。 ウォレン教授は、モーゲジ(ホームローン)と医療保険、それにセカンドカー、そしてデーケアの費用、この四つだと指摘します。 

そしてクレジットカードによる安易な借金で、日に日に深みにはまっていきます。 クレジットカードの借金を支払えない人の数は記録破りです。

アメリカのミドルクラスの70%が、家計の遣り繰りに不安と危惧を覚えています。


夜中に目が覚めて、子供にガールスカウトの制服を、またブラスバンドの楽器を買ってやらなければならないが、ホームローンが払えるだろうかと、にわかに心配になって、寝付けなくなります。 ガス代電気代は大丈夫か。 2台の車の月賦は払えるかどうか。 ある日金融会社がやってきて、車を取り立てていくようなことはないだろうか。 一体いつまで車を使えることやらと、思いはさらに乱れます。

しかし、先刻あげた四つのアイテム、つまりモーゲジと医療保険、デーケア、車の月賦という、大きな固定費に圧迫されますから、変動費に皺寄せがいきます。

変動費の一つは衣服費ですが、これが30年前にくらべると22%減っています。 
 

外で働いている母親は、食事もテークアウトか外食ということになり勝ちです。 それでも一世代前にくらべて、ミドルクラスの食費は21%少なくなっています。

家電製品をみてみましょう。 どこの家庭でも電子レンジは常識。 しかし統計は44%減少という結果を示しています。

しかしモールもショッピングセンターも、駐車場は一杯。 停める所がありません。 それだけの買物客は何を買っているのでしょうか。

デザイナー物のブランド商品が並び、コーヒーメーカーとか、200ドルもする運動靴とか、不急不要の品物が、ウィンドウショッピングをする人達の衝動買いを誘っています。  水でさえも、水道の水ではあきたらないと、ボトル入りのブランド物を箱ごと買っていきます。 かなりの人が、特に買わなくてもいい物を、クレジットカードで買っています。

主婦が外で働いて75%余分の収入を家庭にもたらすとしても、モーゲジ、医療保険、デーケア、車の月賦を支払っていくには、それでもなおかつ足りないというのが、平均的ミドルクラスの家計です。

郊外にマイホームを求める若い家族の最大の関心事は学校です。 通勤に便利とか、環境や価格よりも、一に学校、二に学校、三に学校と唱えます。

昔の家庭は、収入に見合った家を買い、子供が歩いて通える町内の学校で十分満足したのですが、現代の大学出の若い夫婦は、進学率のいい学校を選んで、そうした地域に住宅を求めようとします。 そして、ついこの間までは、学校のカリキュラムについての質問が多かったのですが、今は、「この学校は安全ですか?」という質問がトップだそうです。 北米の世相を反映するものでしょう。

一方住宅の値段はどんどん上がっています。 1970年代の平均的住宅は5.8室でした。 現在の郊外の住宅は6.3室。 たった0.5室しか増えていません。 それでも30年前にくらべ、コストは70%以上高くなっています。

共稼ぎでさえそうですから、ダブルインカムの世界の中で生きていかなければならない片親の家庭の苦しみはいかばかりか、筆舌に尽くせないものがあるでしょう。 

クレジットカードを発行して容易に借金させる消費者金融業界は、2%のホールセール金利で借りてきた金を、18%から24%の金利で貸すのですから、巨利を博しています。 今年のクレジットカード会社の利益は780億ドルといわれています。

過去数年間にワシントンで最も多く政治献金してきたのは、石油産業でもなく、製薬業界でもなく、クレジットカードを発行する消費者金融の業者だそうです。 銀行や消費者金融業界からの献金は、選挙の年だけでも、3700万ドルを超えています。 MBNAはクレジットカード業界で第2位ですが、ブッシュ大統領にへの献金ではトップだということです。

そして破産法の内容をさらに厳しくして、消費者が破産宣告をして借金を棒引きできないように、ロビー活動を進めていますが、ワシントンの上下両院の議員達もそれぞれ献金を受け取っており、法案が通過してホワイトハウスにまわってくれば、ブッシュ大統領もためらうことなく署名することでしょう。

その政治献金も、元はといえば、ミドルクラスから搾りあげた高金利が上納されているということでしょうね。 

草々 

2004年2月11日          重松彬



冠省  先週の水曜日(2004/01/28)は、BBCの82年の歴史の中で最悪の暗黒日でした。 ブレア首相に無条件降伏したのですから。

そして、イギリスの政治劇としても、サッチャー首相が保守党の謀反で追い出された時以来のドラマチックな出来事だったのではないでしょうか。 

ライトオーナラブル・ロード・ブライアン・ハットン判事が、ショッキングな80分の論告を終えた時、折しもロンドンは吹雪に見舞われ、視界がすべて雪で包まれたそうですが、シェークスピアの好きなイギリス人には、芝居の一幕をみたような気分だったかもしれませんね。

事の始まりは、国防相の科学者、ケリー博士の自殺。 誰しもが、自殺に追い込んだのは、労働党政府と、ブレア政権の「有罪」を予期していたのに、それが、一転無罪放免。 

返す刀で、憎きはBBCと、問答無用の断罪に処したのですから、驚きました。

ハットン判事の判決の内容を事前に知ったブレア首相は、至福の境地だったでしょう。 議会で勝ち誇った演説を行いました。 

しかし、翌日のイギリスのプレスは、一斉に反撥。 BBC支持にまわったそうですね。 国民の3分の2が、政府より BBC を信用しているという国ですが、新聞と民放は、かねてから常に、BBC に批判的です。 その中でも特にタブロイド紙は、アンチBBC の先鋒。 そのデーリーメールが、一面に、「ホワイトウォッシュ」と見出しをつけ、ハットン報告は 「真相を糊塗したもの」 と糾弾したそうですね。

事の次第は 昨年5月に遡ります。 BBCのアンドルー・ギリガン記者が、朝のラジオ放送で、「政府は、イラクを攻撃するために、情報を操作し、開戦を正当化した」 と述べたことにあります。 そして、その情報源は、ケリー博士だったと、政府筋から洩れて、議会の追及を受けた博士は、7月に自殺します。

そこで、ブレア首相は、裁判官のハットン卿に、ケリー事件の調査を依頼。 真相と責任の所在を明らかにするよう求めました。 

その結果、ハットン判事は、「政府には、一切責任はない」 とし、また政府に対して国民が抱いている疑惑についても触れることなく、いささかも政府を批判するような言辞はなかったと、ニュースは伝えています。

そして、「責められるべきは、BBCのラジオ放送.。 そしてその内部調査の実態に、重大な欠陥があった」 としています。

この結論には、その前日も他の重大な政治危機を迎えていたブレア首相としても、意外だったのではないでしょうか。

BBCのギリガン記者は、問題の朝の放送にあたって、スクリプトもノートもないまま、「サダム・フセインは、『45分』 でミサイル攻撃可能」 と生放送しました。 BBCの報道部では、デスクも上司も 事前のチェックをしておらず、ギリガンもノートが無かったことが、その後の調査で、明らかにされました。  しかも BBCは、その時点であっさり非を認めなかったことが、BBC自身の手に手錠をかけることになってしまいました。

ハットン判事は、ギリガンのリポートを、「捏造」と判断。 問題は用語の選択と解釈にかかっていたと思うのですが、「示唆」 が 「事実」 にすり変えられ、「サダム・フセインが45分以内に攻撃可能かもしれない」 というべきところを「攻撃するだろう」 と語勢が強められてしまいました。 

そしてケリー博士の名前が表面化したのは、ブレア首相のオフィスの意図も絡んでいたようですが、ハットン判事は、この点に関しても、首相側近の責任を不問とし、その結論に到った証言の記録も秘密のままです。

ハットン判事が報告書を発表した直後、BBCのチェアマン(経営委員長)デービス氏が辞任を発表。 間もなく続いて、ディレクタージェネラル(会長)のダイク氏も辞任しました。 こうしてBBCの最高責任者2人が直ちに辞めることになったのですが、実は2人とも労働党の支持者。 ブレア首相の選挙運動にも寄付をしていたのですから、劇の色合いはさらに複雑になります。 

しかし BBCの中立性を守るために、2人は身を引いたのでしょう。 それに、
BBCは、間もなく、政府に、次の10年間の放送免許の更新を申請しなければならない立場にあります。 

テービス氏は、辞任の挨拶で、「プレイヤーは審判を選ぶことはできない。 しかし審判の判断は最終的なものだ」 と述べています。

これは、私の根拠のない推測ですが、ハットン判事は、もともとBBCが嫌いだったのではないでしょうか。 報告書の中で、主観的、かつ生煮えの、放送ジャーナリズム論議を談じていますが、これは、「公憤」の姿を借りて 「私憤」を晴らしたのではなかろうかと、疑いたくなるのです。 

ハットン卿と同じロードの肩書きをもつ、高年の大学教授の貴族がコメントしていましたが、「トニー・ブレアもロード・ハットンもお互いにエスタブリッシュメントの仲。 肩をもってやったのですよ」 といなしていました。

イギリス全国のBBCの職員達が、自発的に街頭に出て、デモを行っていましたが、ボスを擁護して、ストライキに近い抗議運動を繰り広げるのは珍しいことです。 

街頭でインタビューされた老婦人を含む市民達の発言も、「うさんくさい」 という声が一般的でしたが、どうも後味の悪いハットン報告でした。  

これだけの問題をおこした当のギリガン記者は、数日後 BBCを退職しました。

エコノミスト誌も、「ブレア政権に対する疑惑はこれで晴れたわけではない」と論じています。

BBCを揺さぶった大地震、これからどういう展開となるのでしょうか。   草々
(04/02/02)



2001年9月11日、ニューヨークのワールド・トレード・センターとワシントンのペンタゴンが、アラブ人グループのハイジャックした航空機によって直撃されたテロ事件については、その後膨大な記録が作成されていますが、事件をめぐるホワイトハウスの不思議な動きについては、疑惑が高まるばかりです。 そこで今日は、当地のメディアが取り上げた疑問について、お伝えしてみたいと思います。 

「コロンバイン」のマイクル・ムーアが、アカデミー賞の授賞式でブッシュ大統領を「いかさま師」と呼んで、賛同と非難の声をまきおこしましたが、今度は、またブッシュを糾弾する本を出したとそうです。 野球帽のムーアがインタビューアーに語ったところによると、アメリカ国民を騙して、嘘の口実をつくり、イラクに攻め込んだブッシュ大統領は、その父親のブッシュ・シニア元大統領とともに、25年前から、サウジアラビアの王室、ならびにビンラーデン家と密接な関係があったと言うのです。 

そして、9/11の後、アメリカの空が全部封鎖されていたにも拘わらず、アメリカ各地にいたサウジアラビア王族のメンバーやビンラーデン一族、その他サウジのエリート達をボストンに集め、 2日後に、これらサウジアラビアの要人達を乗せたジェット機が、アメリカを離れ、パリへ向かったということです。 しかも、その飛行の特別許可は、ホワイトハウスのトップレベルから出たものとみられます。 

カナダのメディアも、この一連の不可解な動きについて、実は昨年秋、同様な疑問を提起したのですが、CBCのドキュメンタリーも、1970年代に始まった、ブッシュ父子とサウジアラビアの王室ならびにビンラーデン家との関係にメスを入れようと試みています。

もともと父親のジョージ・ブッシュ・シニアは、テキサスの石油で資産をつくり、下院議員から、1976年CIA長官となりました。 その時期、サウジ王室の近衛部隊をCIAが訓練したことから、ブッシュ・シニアとサウジ王室の関係は密接なものとなりました。

サウジアラビアで、王室に次ぐ財力と権力をもつのがビンラーデン家。 建設業で巨富を積み、オサマ・ビンラーデンは、その数十人いる子弟の一人です。 

1968年、若きジョージWブッシュは、テキサスのナショナル・エアガードに入隊。 テキサスの空を飛ぶ代わりに、ベトナムの戦場行きを免れました。 1978年、石油探査事業に手を染めた時は、友人知己が資金のバックアップに応じてくれたようですが、同時にサウジアラビアのビンラーデン家からも百万ドル以上の資金が拠出されたと言われています。 しかし、ブッシュ・ジュニアは、球団のオーナーとしてはともかく、石油事業ではさしたる成果は収めなかったようです。

1979年、ソビエトがアフガニスタンに侵攻。 サウジアラビアは、当時21才だったオサマ・ビンラーデンを、ムジャハビーン勢力のリーダーとして起用し、ソ連軍に抗戦させました。 ソ連のアフガニスタン侵攻を嫌う米国は、戦闘が次第にベトナム戦争の様相を呈するよう望み、オサマを支援しました。
 
1980年、ブッシュ・シニアは、レーガン大統領のもとで、2期副大統領となります。

1987年、ブッシュ・ジュニアのエネルギー事業の一端が行き詰まり、2500万ドルの資金が必要となりましたが、その資金の一部は、ビンラーデン家につながる、オサマの義兄から提供されたと言われています。

1988年の選挙で、ブッシュ・シニアは大統領に当選しましたが、その際、外国人の献金は違法とされているのに、サウジアラビアは、多額の現金をスーツケースに詰め、法律事務所に運ばれたものとみられています。 こうして、ブッシュ・シニアが大統領になると、サウジアラビア大使は、いつでも大統領執務室に出入りできる特権をもつことになりました。 

1989年、ソ連軍はアフガニスタンから撤退。 CIAはこの戦争に30億ドルもの戦費を費やしましたが、そのアフガニスタンの抗ソ戦に貢献したオサマは、サウジアラビアに帰国。 しかしアメリカによるアフガニスタンの戦後処理に失望し、それまでアメリカと同盟関係にあったオサマは、次第に怒りを募らせます。 

そして、1990年代に入ってからは、アメリカの敵にまわるわけですが、アメリカは、オサマの変心を覚らなかったようです。 一方、サウジアラビアは、反米に転じたオサマに、依然資金援助を続け、それも年間5千万USドル程度の規模だったとみられています。 しかし、サウジアラビアは、援助については否定しています。

オサマは、神聖なサウジアラビアの国土に米軍が駐留するのは冒涜であると考え、米軍に対するテロ活動を開始します。

一方、ビンラーデン家では、オサマを表向き廃嫡し、絶縁を表明しています。

(つづく)
(つづき)

1991年、湾岸戦争が勃発。 イラクはクウエイトから撃退されましたが、オサマはスーダンに居を移し、米国に対する憤怒をさらに燃やします。

1992年、ブッシュ・シニアは大統領選挙でクリントンに敗れます。 しかし、ブッシュとサウジアラビア王室、並びにビンラーデン家との関係は、それからもますます強まります。

1994年、ブッシュ・ジュニアがテキサス州知事に就任。

1995年、タリバンがアフガニスタンで政権樹立。

1996年、オサマがスーダンからアフガニスタンに移動。 サウジアラビアも米国も、それを知りながら、黙過します。

同年6月、サウジで、米軍施設が攻撃され、米兵19人が死亡。 その復旧工事は、ビンラーデン組が受注。

1998年、アルカイダがケニアとタンザニアのアメリカ大使館を爆破。 224人死亡。

2000年10月、イエメンで米国軍艦コール号が襲撃され、海軍将兵17人が死亡。

同年11月、ブッシュ・ジュニアが大統領当選。

2001年9月11日、ワールド・トレード・センターとペンタゴンが、19人のアラブ人にハイジャックされた航空機により直撃されます。 その朝、ブッシュ・シニアは、ワシントンのリッツカールトンホテルで、ビンラーデン家の代表を交えて、カーライル投資グループと会合していたと言われます。 

9/11から2日後、アメリカの空は管制下にあって一切の民間機の飛行が許されない中、ホワイトハウスからの許可を得て、サウジアラビア王室ならびにビンラーデン一家などサウジのエリート達を乗せたジェット機が、ひそかに空港から出国します。
 
米国政府は、それまで、サウジアラビア人をテロリスト容疑者のリストに加えることをせず、FBIもサウジ人を取調べることは、許されませんでした。 

9/11の後、ハイジャッカー19人のうち15人がサウジアラビア人であったことが判明。犯行の資金もサウジアラビアから出ていたことが明らかになりましたが、FBIがサウジアラビアで犯人の家族友人に会って調べることも、サウジアラビア政府が許しませんでした。 

米国は、実行犯の大半を出したサウジアラビアを不問にし、代わりに、旧ソ連領からのエネルギー・パイプラインの敷設に好適と考えられるアフガニスタンを、アルカイダの根拠地として攻撃しました。 そして次はイラク攻略です。 イラクは9/11には関係なく、アルカイダともオサマとも無関係であったにも拘わらず、マイクル・ムーアの言うところの「嘘の口実」で攻め込み、占領しました。

その間、欧州や東南アジアでは、間近に迫ったテロリズムの情報が蒐集され、ドイツの情報機関が調べた通話記録には、在欧のテロリストとサウジアラビアとの電話連絡の明細が記録されています。 そうした情報は、アメリカのCIAにも通報されたのですが、CIAも他の情報機関も、海外からの情報を無視。 アメリカ国内でも、FBI職員が、不審なアラブ飛行学生について警告を発しても、組織の中間で握りつぶされてしまいました。 

こうした数多くの情報が、実は事件の発生する数年前から報告されていた実態が、米国議会の調査委員会に提出された、800余ページの報告書にまとめられています。 しかし公表された報告書のうち、28ページが欠落していました。 その部分は塗りつぶされ、委員会に対しても、その内容は、明らかにされませんでした。

議会調査委員会は、テロリズムの資金源であるサウジアラビアの団体や個人名を列記した記録の提示を求めましたが、ホワイトハウスは、その晩のうちに、問題の部分を「厳秘」扱いに指定し、議会に対する提供を拒否しました。

こうした不可思議な問題点ついて、プレスは、サウジアラビア、並びにブッシュ家、そしてホワイトハウスに、謎の解明を迫って、質問をつづけているのですが、いずれも沈黙を守ったまま応えることなく、今日に到っています。

9/11の惨事は、情報不足で予知できなかったわけではなく、十分に多様な情報が事前にわかっていたにもかかわらず、それを様々な思惑から、様々な段階で、無視され、意志決定に生かされなかった結果だと、プレスは推論します。 つまり「9/11は、情報の敗北ではなく、事前にアタックは予期できたのだから、情報の成功だったのだ」と、情報関係者は苦い後味とともに、回想するのです。
(2004-1-22)



02-11-17
フランス語といえば、モントリオールにいた 日本の領事が アフリカの セネガルに 転勤になって、「こちらのフランス語は分かりやすいので助かる」 という便りをよこしました。 私の勤め先のボスも セネガルから来た黒人でしたが、「セネガルのフランス語は、フランスのフランス人よりも、正統なフランス語を使うのを、誇りとしている」 と話していました。 カナダ人より セネガル人の方が、フランス語の教師としては いいのかもしれません。

日本の英語学校の事務長が、「アメリカ人やイギリス人の先生を雇うのは、ビザやワークパーミットの関係で なかなか厄介。 ところが、カナダやオーストラリアとは、ワーキングホリデーの取り決めがあるので、すぐ飛んでこられる。 それでも、オーストラリアの先生は、歓迎されませんね。 正統な英語ではない ということを 日本人は知っているから」 と言っていました。  

ロンドンで、日本語を勉強していたオーストラリア人の青年が、「先生はどこの出身ですか? 鹿児島ですか。 東京の人でないと、日本語を習ってはいけないときいていますが、そうですね。 京都の人から習うと、女の言葉になって、笑われるという話ですし」 と言っていました。 そんな人に限って、文法の細部にこだわり、語学の習得には 不向きでした。 日本では、オーストラリア人は、島流しにあった犯罪者の子孫で、英語も、コクニーの英語だという、偏見がまかり通っていることを、彼は知らないようでした。

カナダの英語は、ミッドアトランティック・アクセントといって、イギリス英語とアメリカ英語の中間とされていますが、階級や地域による違いがなく、平等で、民主的です。 しかし、BBC英語になれた耳には、イガリテリアンのカナダ英語は、かなり庶民的な響きがありました。 一方暫くカナダに住んでみて、今度はこちらの英語に慣れると、それはまた快い響きでした。 ですが、アメリカ人やカナダ人の中には、いわゆるブリティッシュイングリッシュのアクセントを嫌う人がいるのには、驚きました。



02-11-13
ケベックの若い人たちの中には、英語が下手というよりも、ほとんど喋れない人が結構いるのには驚きます。 ケベックは、四方英語圏に囲まれていて、しかもアメリカの国境まで 車で直ぐというのに、ケベックの言葉だけしか使えないというのは、理解に苦しみます。 フランス語を押し進めるために、ケベック党州政府は、庶民の子弟に 公立学校でなるべく英語を学ばせないよう、ディスカレッジしていますが、戦時中の日本で、英語を敵性語とみなしたことを思い出します。 それでいて、ケベック党や州政府のお偉方は、自分達の子弟には、英語系の私立学校に通わせて、英語が上達するように仕向けているというのですから、二重人格的臭みを感じます。

ケベックの「ケベック語」は、昔のフランス語をそのまま受けついでいるので、フランス人でもわからないのだと聞きました。 学校では、最近、「国際フランス語」 を教えているので、フランスでも通用すると言っています。 しかし、フランス人が純正フランス語をしゃべると、ケベックの人は、侮辱されたような気がして、怒って、英語で返事するそうです。



02-11-07
メールを頂戴し、最初に「入院」の字が目にはいり、驚きましたが、静養をかねて、人間ドック入りとうかがい、安心しました。 それにしても、腹を割らなくても腸のちょっとした異常までよくわかるものだと、感心します。 

前にもお伝えしたかと思いますが、私が30代で、機械の売り込みに汗を流していた頃、医者が家内に、「ご主人は48才 までの命ですよ」と言われたそうです。 それから、スティーブンスのおかげでBBCに乗り換え、3年後に帰国して、同じ医者にみてもらったところ、「もう大丈夫」 という診断でした。 私の父も伯父たちも、みな50代前半でなくなりましたから、私の遺伝子も悪いはずですが、ラジオという、資金繰りの苦労に関係のない職場にいたせいか、とうとう71才になってしまいました。 家内も「東京にいたら、もうとっくに死んでいたでしょうね」と言います。

最初BBCに行ったときは、昭和43年でしたが、週二日の休みにとまどったものです。 すぐ安易なライフスタイルに慣れてしまいましたが。 それに、東京にいるときは、同僚の人たちの給料を出すために一生懸命でしたが、自分の給料どころではありませんでした。 それが、BBCに入った途端、2週間おきに、キチンキチンと銀行の口座に振り込まれる。 思わず頬をつねりたくなるような思いでした。

カナダへ来て、CBCの日本語放送を、私一人でやっていたときは面白かったのですが、ほかにモントリオールの日本人女性が何人か入ってきてからは、屈辱的環境に変わってしまいまいした。 地獄とまでは言いませんが、煉獄よりはひどいところでした。 海外の唐人お吉の中には、時にはいい人もいますが、そうでない人たちも多く、それに加えて、反動的な私は、パブリック・エネミー・ナンバー・ワンになってしまいました。
  
そういう次第で、私の性格も人相も一層悪くなってしまいました。 CBCの予算削減で、日本語班が空中分解したときは、思わず快哉の声をあげました。

私も、そのとき クビになったと思ったのですが、喜びの気持の方が大きく、ロンドンの新聞で、私の職場が消滅したことを知った娘が 電話をかけてきたとき、私の声が元気そうだったので 驚いたと言っていました。 結局、日本語サービスの同僚やボスは全員クビになったのですが、私だけは、人事部のコンピューターのエラーのせいか、定年まで、さらに5年間、恥をさらすことになりました。 そして、いよいよ定年退職するとき、人事部の人に、「毎年大勢の人がやめていくが、定年でやめるのは、今年になって、あなたが二人目です」 と言われて、ますます恥じ入りました。 多分何度も肩をたたかれたのでしょうが、フランス語がわからないので、ヒントを察することが出来ず、図々しくいずわってしまいました。
 
ビジネスは、やはりマイ・オウン・ビジネスが一番ですね。 百万石でなくてもいいから、一万石の小藩でも、鶏頭となるも牛後となるなかれで、みずから陣頭に立ち、理想を実践にうつして、ユートピアに仕上げていくよろこびは、創業者ならではの特権でしょう。


02-11-03
11月3日の祝日はいかがでしたか。 我々の世代は、やはり明治節。 お祖父さんたちの時代は天長節だったのでしょうが、やはり秋晴れの菊薫る好天気だったのでしょうか。 カナダは、このところ、連日、日本晴れで、10月は、史上かつてない快晴連続の新記録となってしまいました。 都会に住む者は、大喜びですが、アルバータ、サスカチュワン、マニトバの農場は、収穫はおろか、家畜に食べさせる干し草にも事欠いて、かつてない旱魃の悲劇がひろがっています。

ブッシュ政権は、最近ますますヒステリーが昂じてきて、カナダ市民であっても、出生地がイランとかイラクだと、国境を通過するのに、指紋をとり、写真をうつし、何時間も訊問するという政策を打ち出して、カナダ政府も 「それはあんまりだ」 と抗議しています。 

うちの次男の嫁はイラン生まれですから、これからロスアンゼルスの親兄弟のところへ訪ねていくのもますます難しくなってきました。 カナダ旅券の名義は、バハリ・シゲマツと日本の苗字ですが、出生地がイランですから、今までも、夫婦で旅行する際でも、バンクーバーの空港で、アメリカの移民官に、ひとり別室によびこまれ、訊問されていました。

*     *     * 

eBay についてお伝えする気になったのは、以前、本郷のオフィスにお邪魔した折、イスラエルから輸入した高級プリント絵画をみせていただいたのを思い出したからです。 eBay では、そうした絵画のプリントやペインティングを扱っています。 私の弟も、退職後はバンクーバーの風景画を描いて、カードにプリントしているのですが、なかなか販売に結びつかないので、eBay のことをサジェストしたいと思います。

しかし、eBay Co.Jp のホームページをみてみると、日本では半分休業状態のようなので、どうしたのかなと思っています。 日本には、類似の、オンラインの販売網がたくさんあって、信用が確立されていないようですから、そういったことからして、時期尚早と、市場に踏み込むのをためらっているのかなと、考えたりします。

三女の娘は、学校の勉強は大嫌いでしたが、家族の中では、最も世情に通じ、コモンセンスがあるので、親の我々も、「じゃぁはなに訊いてみよう」 とモントリオールに電話をかけることがあるのですが、そのはなが、よく eBay を使って買い物をしているので、またそのプラスマイナスを訊いてみようと思います。

庶民の私どもは、まずコスコ (CostCo) で探してみて、そこで見付からなければ、ほかの店でという買い物の仕方です。 昔雑誌で読んだところによると、イギリスの王室は、まずマークスアンドスペンサーにあたってみて、そこに無ければ、別な御用達の店へ行くという伝説がありました。  イギリスの外交官夫人が、東京に赴任して、 「一番困ることはマークスアンドスペンサーが無いことだ」 と言っていました。 しかし、カナダでは、マークスアンドスペンサーは立ち行かず、店を閉じました。 カナダ製の製品だけを扱っていたからでしょうか。 

コスコも日本に進出していますが、業績はどうなんでしょうか。 ウォールマートの売り上げが、GMを抜いたというので驚きましたが、eBay の数字もウォールマートを急追しているそうです。 eBay は、売り手の評判をホームぺージに載せています。
 


02-10-31
昨晩テレビを見ていたら、「eBay」のトピックが取り上げられていました。 貴兄なら、とっくにご存知のことかもしれませんが、世事に疎くなった私には、耳新しいことだったので、釈迦に説法を承知の上で、一応お伝えしてみます。

Ebay とは、オンラインのオークション・カンパニーで、この数年間、アメリカで最大のビジネス現象となっています。

EBay は、売り手と買い手を結びつけるのがビジネスですが、世界中で5千万の人が、毎日4100万ドル(US) の取引を行っています。 その成約額は、メーシーやシアズ、ブルーミンデール、トイザラスをあわせた額よりも大きくなっています。 

 
ベビー用品から古着、中古車、住宅まで売っていますが、ウェブサイト上で取引される自動車、オートバイ、部品の分野では、最大の取り扱い量となっています。 オートバイは18分に1台、SUVは30分に1台の割で、売れています。

コンピューターとデジタルカメラと売りたい品物さえあれば、誰でもビジネスができるので、今や15万人の人が勤めを辞め、eBay で商品を売っています。

消費者も、タッパーウェアにせよ、クリスマスプレゼントや結婚祝にせよ、まずeBay で探してみて、なかったら店に行くという人が増えています。

在庫も要らなければ、流通機構も中間マージンも無用。 IBMやディズニーも eBayを使っています。 ウェブサイトにのる商品の数は、毎日1200万種。

売り手の中にはいかがわしいものもありますが、その割合は100万件につき30とのこと。 買い手から苦情の多い売り手は、eBay から放逐されます。

www.ebay.com          www.ebay.ca          www.ebay.co.jp
eBay のCEOは、Meg Whitman という女性です。



02-10-30
日本では、65才以上になると、運転免許証にも、一言余計なことを言われるのですか。 私も、今月免許証を書き換えましたが、以前の免許証には、「眼鏡使用」 という条件がついていたのに、今度は眼鏡なしということで、一応簡単な検査で、OKになりました。 しかし、私が運転をやめてから2年以上になります。 

私は、もともとソーシャルスキルに欠けているので、「ノースピークイングリッシュ」 なんて、英語でもないブロークン英語を一言発して、何も喋らなくてもすむように、横着な態度をとっています。

しかし、日本から、退職移住してきた人たちの間では、桜楓会というグループがあって、懇親を深めておられる様子。 私は、つむじ親爺で、日本食の食料品店にも、日本食レストランにも行ったことがなく、日本人の方々とのお付き合いもゼロですが、これは性格的に欠陥があるからだと思います。



02-10-28
日本人はビザ無しでカナダに六ヶ月は滞在できますから、アパートを借りて、半年だけ使い、残りの半年は空けたまま家賃を払っているというケースが、退職者の中にもみられます。 しかしそうなると、実質家賃が倍になってしまうので、ホテルを使う方が便利かもしれません。

ホテルバンクーバーやベイショアインは、ビジネストリップには向いていますが、私的なぶらり散歩的滞在にはどうか。 私の知り合いが利用するベッドアンドブレックファーストは、その道では五つ星という定評ですが、一泊150ドル。 海と公園に面した古い建物を改造し、リトルパレスと言いたくなるような造り。 常連でたいてい満員のようです。 ハズバンドは医者で、その奥さんが、小さな双子を育てながら、毎朝ビックリするような朝食を出してくれます。

通のうるさ型が泊まるのは、ウェッジウッドホテル。 ここは一泊200〜660ドル。 

お金のない年金生活者でも安心して利用できるのは、シルビアホテル。 一泊80ドルから165ドル(これは多分スイート)。 建物は、バンクーバーで最も古い高層ビルですから、ツタで覆われています。 しかし場所が絶好。 食堂からイングリッシュベイのビーチが一望。 ここの朝食は三ドル十五から。 卵と独特のポテトフライが美味しく、紅茶やコーヒーは大きなポットをテーブルに置いてくれます。  ベーコンなどいろいろ身体に悪いものを注文すると八ドルぐらい。 バックグラウンドミュージックはソフトなクラシックで、ウェイターやウェイトレスのサービスも上品で丁寧です。 

私も、一番安い部屋に泊まったことがありますが、部屋は小さくとも、一応バスルームも昔ながらのものがあり、値段の割には文句はありませんでした。 ホリデーインというわけにはいきませんが、まあ昔の東京駅のステーションホテルに近い部屋の狭さとでもいいましょうか。 地下駐車場もありますし、一歩外へ出れば、右はスタンレーパーク、左はデンマンやロブソンといった賑やかな通り。 しかも安全です。

もっといいホテルやアパートメントも沢山あるのでしょうが、YWCAでも五十六〜百十二ドルします。



02-10-26
カナダのビジネス移住について、参考文献から抜書きしてお伝えしてみます。 

ビジネス移住受け入れは、起業家と投資家に分けられます。

起業家とは、事業の経験があり、30万カナダドル以上の実質資産を持ち、カナダで有益な事業を始め、少なくとも一人のフルタイムのカナダ人を雇用できることが条件となっています。 永住許可を取得してから、3年以内に起業し、それも実質二年以 上継続して事業を運営することが求められます。 事業主としての経験がない場合でも、50人以上の社員をマネージした経験があればいいことになっています。

また、年間売上額が25万ドル以上で、純所得が2万5千ドル以上見込まれるという、事業計画書を出す必要があります。

投資家は、事業の経験があり、80万ドル以上の純資産を持ち、カナダ政府あるいは州政府の指定する投資先に、40万ドル以上投資することが求められます。

なお、連邦政府の移住政策とは別に、各州ごとに、独自の移住政策がありますから、各州政府の東京事務所にコンタクトし、その内容をお調べになった方がいいかもしれません。 カナダ大使館経由なら18〜24ヶ月かかるところを、たとえば東京のブリティッシュコロンビア州政府事務所を通じて申請すれば3〜6ヶ月で結論が出る可能性もあるそうです。
 
連邦政府と州政府の間柄は、仲の悪い夫婦のようなもの。 赤坂のカナダ大使館がいくら外では旦那面をしてみても、うちの中では、どうして、なかなかカミサンが強くて…というのがカナダの実情です。l

ホームページは、
http://cicnet.ci.gc.ca/english/immigrate/index.html

私の親戚が25年前に移住した時は、年齢も既に50. 特に技能も資産もなく、小規模の雑貨貿易小売をやっていました。 そこで、写植の夜学に通い、技術を習得。 当時、バンクーバーには、日本語印刷の写植がなかったので、その仕事をするという目論見書を英文で提出したところ、一発で合格。 東京のカナダ大使館には、日本人で癖のあるうるさ型の職員がいて、いじめと意地悪をするというので有名でしたが、その人の審査はバイパス。 移住コンサルタントや弁護士の世話になることもなく、第一回の面接の段階で、カナダ人移民官から、「コングラチュレーションズ」 と言われて 信じられなかったそうです。

もう一人の場合は、カナダ人と結婚したのだから、スムースに移住許可もとれたのでしょうが、友達の友達がカナダ大使館に勤める日本人職員を間接的に知っているからという触れ込みで、結局在京インド人弁護士に12万円払わされたそうです。 本人にしてみれば、藁をもつかむ思いだったのでしょうか。

最近カナダ政府は、そのようないかがわしい移住コンサルタントや弁護士にだまされないようにと、しきりに警告を発していますが、今のところまだ取り締まる法的根拠がないようです。


02-10-23
大学の授業料は、大学の学部学科によって異なりますが、平均すれば、年間4000カナダドルぐらいでしょうか。 外国人学生の場合は、これまた大学学部によって異なりますが、カナダ人の2倍から3倍はするのではないかと思います。 大学院になると、従来は、カナダ人と外国人の授業料の格差はありませんでした。

しかし、カナダのほとんどの大学が、州立で、それぞれの州政府の財政が苦しくなると、授業料も値上がりします。 それでも、アメリカの私立名門大学の10分の1ぐらいでしょうか。 

授業料の高騰も問題ですが、それ以上に深刻化しているのが、入学難の問題。 ベビーブームの世代の子弟が、これから一斉に高校を出ますが、その大半が大学進学を志望。 しかし、大学では、教室も教授も足りないので、希望者の半分は、お断りしなければならない状態にあります。

ビジネス移民については、起業家の資産は30万カナダドル、投資家の場合は80万ドル調達できることが必要だったと思います。   カナダ人を一人か二人フルタイムで雇用することが条件です。 




02-10-22

アメリカでは、拳銃や短銃が飽和状態に達しているので、銃砲業界は、さらにマーケットを拡大しようと、ハイパワード・スナイパー・ライフルを新製品として売込み中です。 最も人気があるのは、「ブッシュマスターXM15E2S、ニックネームは「ショーティ」というタイプ。 重さ6ポンドという軽量で、携行が自由。 値段は800ドル。 銃砲業者は、「一発必中」 と 「ロマン」 を売り物にしています。

アメリカ人は、二言目には 「憲法で保証された権利」 と言いますが、精神病者でも銃 砲を買えるアメリカです。 ガンコントロールの声はなかなか聞こえません。
  



03/11/04

先日の井上さんからのメールで、原子力発電について触れておられましたが、カナダにも、独自に開発した CANDU という原子炉があります。 

あれはもう 40年ぐらい前になるでしょうか。 カナダでも軍事的な動機から、原子力利用のリサーチが始まり、AECL(Atomic Energy Canada Ltd.) という国策会社ができました。 その後、軍事よりも発電に重点がおかれてきたのですが、今までに、かれこれ 170億カナダドルの政府資金が投じられてきました。 

この CANDU の技術的特徴を、サイエンスに暗い私は残念ながらご説明できず、申し訳ないのですが、カナダが誇り、かつ、海外にも、積極的に売り込みを行ってきた 原子炉です。

現在、海外に 11基、国内に 20基設置されていますが、さらに、最近は、上海の近くに、新しい CANDU が 2基建設され、その開所式には、クレチアン首相と中国の首相が出席しました。 クレチアンは、海外市場の開発に熱心で、度々民間企業とともにミッションを組んで、海外に同行しています。 中国には 10年間に 6回訪れています。 中国は 向こう 30年間に 100基の原子炉を建設したいということなので、カナダも、今回の CANDU が、予算も納期も約束通りに納入ができたことから、これからも引き続き受注したいと、中国に期待をかけています。

しかし、実は、既設の 31基のうち、6基は修理中で、稼動していないのが現状です。 向こう 15年間には、現存の原子炉は 恐らく使えなくなるでしょうし、新しい原子炉を作るか、あるいは CANDU に代わる新しいエネルギー供給源を見つけなければなりません。 


カナダにおける原子力発電の割合は、2000年で 12%。 電力にして年間  30億ドル程度。 比較的控えめなシェアと言えましょう。 

CANDU 産業に働く人は  30,000人。 輸出は、年 10億ドル。 その内容は、原子炉用部品とか、ウラニウムとか、サービスなど。 

それでも、上記のように、技術的にはまだ向上の余地があるようで、それに、環境問題、健康問題など、配慮しなければならない側面が これからも増えそうです。 6年前に、一旦は、予算の上限枠がかけられた原子力発電産業ですが、最近、議会では、また新しい CANDU を開発する予算として、4,600万ドルの支出を認めました。 しかし、議員達も、その実態を十分に掴んでいないのではないかと、識者は案じています。 果たして、このまま、国民の気のつかぬうちに、CANDU の勘定書が増えつづけてもいいものか。 この辺りで、カナダの原子力発電の将来性を再検討した方がいいのではないか という声も、エネルギー関係者の間から発せられています。
(03/11/04)



03/10/19

よくエセル・マニンさんの本を捜し当てましたねぇ。 本当に驚きました。 なるほど英語の検索エンジンでみてみると、たしかに40頁近く、出ています。 The Flowery Swrd の見出し語で引いても、25頁ありました。 全部に目を通したわけではありませんが、その収録量に圧倒されました。

この分なら、図書館に頼めば探してくれるでしょう。 早速頼みたいところですが、時間をかけて調べて返事をくれる頃には、多分私はカリフォルニアに行っているでしょうから、12月になって、バンクーバーに戻ってきてから、依頼することにします。

キクオ書店も、検索エンジンでみたら、洋書に強い、京都の古書店のようですね。 これも7頁にわたって記載されています。

エセル・マニンさんは、1985年に85才で亡くなられたのですか。 私が最初にお目にかかったのが1965年頃。 それから井上先生がイギリスに来られた頃、2〜3回、ウィンブルドンのオーク・コッテージでお会いしました。 英国式庭園の中に建つオーク・コッテージは、マニンさんが、子供の頃、その家の前を通りながら、憧憬の眼で見上げていた家。 マニンさんが作家として成功し、いざ一軒の家を持とうと、不動産屋に当たってみたところ、最初に連れてこられた家がこのオーク・コッテージ。 運命のめぐり合わせに驚いたマニンさんは、即座に言い値で購入したそうです。

マニンさんは、強烈なアラブ贔屓で、大のユダヤ嫌い。 井上先生のご長女のハズバンドがユダヤ系だと聞いて、口惜しがっていました。 

その時の印象では、クリスチャンとは思えなかったのですが、篤信家のクェーカー教徒、エリザベス・グレイ・バイニング夫人と友人だったと伺い、意外な感にうたれました。 それにしても、井上さんも、歴史に出てくる英米のインテレクチュアルなレディー二人と共に旅をされたとは、人生譜の重要な証人としてのフットノートですね。

現代の若者が、本屋で雑誌を盗撮するという、ハイテクな猿智恵には、呆れました。 バンクーバーの日本書籍専門の書店では、雑誌はプラスティックのカバーで閉じて、中がみられないようにしています。 コーナーグロサリーのエロ雑誌も同様、中を覗けないようになっています。

ロンドンの古書店とニューヨークに住む女性のシナリオライターの往復書簡をまとめた 「84 Charing Cross Road 」という本があります。 薄い、読みやすい本です。 しかし世界の好書家が愛読する本です。 

マンハッタンに住む、さほど豊かでもない女性作家、Helene Hanffと、チャーリングクロスの古書店のマネージャー Frank Doelの、本の注文をめぐるやりとり。 そして、戦後の耐乏生活に生きる彼とその同僚のために、食料品を送ります。 こうして芽生えた友情ですが、二人は、遂に会うことなく、ドエルは病死します。 

この本を愛したアン・バンクロフトは、映画の権利を買って、アントニー・ホプキンスを相手に、同じ題名の映画をつくりました。 私は、そのビデオを、レンタルショップから借りてきて、みたのです。

そして、この本は、最初、子供が私に買ってくれました。 それを飛行機の中で、食事の時に、座席のポケットに入れたまま、忘れて失くし、あらためて同じ本を、また子供に買ってもらいました。 ところが、それも病院の待合室で失くし、3度目は、別な子供が誕生日の贈り物に買ってくれ、それはまだ本棚にあり、失くしていません。 

数年前、ヘレン・ハンフは亡くなりましたが、その思い出を、古書店の社長だった人が追憶し、カナダのラジオでも放送されました。 テレビでも、「84 Charling Cross Road」を深夜時々繰り返して放映しています。  (03/10/19)



03/09/28

メールありがとうございました。 この世を去る時が来て、「もっと会社で働いておけばよかった」と思う人がいるでしょうか。 「もっと家族とともに、妻とともに、時間を一緒に過ごせばよかった」と思うのではないでしょうか。 会社の業績を上げることや、記録を達成することも大切でしょうが、やはり最も大事なのは、家族との関係、友人との関係、そして神との関係を第一にすることではないでしょうか。 メールを拝見して、そんなことを思いました。

ところで、アメリカとカナダで、「減税」についての賛否両論が起こっています。 その議論の中から経済学者の意見をご紹介してみましょう。

カナダでも、アルバータ州進歩保守党やオンタリオ州進歩保守党、それに最近ではBC州自由党が、「減税こそ経済発展の万能薬」と謳って、金持に対する税金を安くし、あわせて社会福祉や医療サービスの削っていますが、果たしてこの政策、国民に利益をもたらすものかどうか。 最近カナダでもアメリカでも、「減税反対」の声が、識者の間から上がっています。

この「減税」の本家本元は、いわずとしれたアメリカの共和党。 ブッシュは、「皆さんのポケットに金が残りますよ」と言っていますが、本当に得するのは、ブッシュやチェイニーのようなオイル成金とその友達。 

カナダの上記の 3州の州首相たちも、レーガンに範をとり、さらにブッシュの轍を踏み、強きを助け弱きを挫く政治を追求しようとしています。

減税で潤うのは、ブッシュやその朋友のように、アメリカでもトップクラスの特権階級のみ。 年収30万ドル以上の高所得者層にとっては、1920年代以来の朗報だそうです。  

しかし中流以下の庶民にとっては、ブッシュの謳う「懐に金が残る」はずの減税効果も、実際には涙金程度の僅かな金額。 過去 30年間のやりくり算段の生活とあまり変わらず、絵に描いた餅となっています。 所得税は下がっても、その他の連邦税や地方税は上がるのですから、「ちっとも楽になったという感じはない」というのもわかります。 

アメリカの連邦政府としても、社会政策を実施すれば金がかかる。 しかしその裏づけとなる歳入がないというのが現状です。 連邦政府の支出のうち、税金でまかなわれているのは 75%。 いずれは破綻する日がやってくるのでしょうが、現在はまだそこまで行っていないので、市民も知らぬが仏なのでしょう。 

ところで、アメリカ経済に占める税金の割合は 26%。 カナダは 38%ですから、アメリカの方がかなり税金は安いです。 しかし、社会福祉サービスや医療サービス(メディケア)の方も、アメリカはカナダにくらべてかなり劣っていることは周知の事実。 アメリカにはカナダのような国民医療制度はありませんし、アメリカ人が全員いつも健康保険にかかっているわけではありません。 7200万の人は、一時的にせよ無保険の状態になることがあるそうですから、深刻です。 

経済がスランプの時期に減税を実施すれば、雇用の増大が可能になるというのが、減税論者の主張ですが、エコノミストの中には、「富裕階級に対する減税は、効果が少ないどころか、そのような証拠は全く無い」と指摘する人もいます。

州や地域によって税金が違えば、投資は、自ずから税金の低い所に流れて行きそうなものですが、そういう州は、教育にまわす予算も少ないので、上質の人的資源が期待できません。 ですから、安い税金イコール投資の増加イコール雇用の拡大という方程式は成り立たないと、エコノミストは指摘します。 

そして、1950年代以降で最も成長が高かった時期はというと、クリントン大統領が高額所得者層に対する税金を増やした時期だったそうですから、減税イコール高度成長という方程式はますます怪しくなってきます。 

まして戦争遂行中に減税を行い、かつそのために年間 870億ドルの特別支出を要請するというのは、異例中の異例でしょう。

それにもかかわらず、減税が共和党政権でまかり通るのはなぜか。 これは強力なロビイストの活動のためです。 ロビイストというのは富裕階級の利益代弁者。 そのロビイストの多くは、シンクタンクの形態をとっています。 そういったシンクタンクは、たいていが保守的な右翼ですから、福祉国家の存在を嫌悪します。 ジョンソン大統領が始めた老人向けの医療サービスや、ルーズベルトが始めた社会福祉政策を否定して、政府がかかわるのは国防だけに限り、その他の社会サービスは政府の管轄から外すことを求めています。 昔の保守的な、できるだけ小さな政府のアメリカに戻りたいというのが、保守的右翼の念願です。

こうして、経済界の識者が警告しているのに、なぜ国民は「減税」を掲げる共和党に投票するのか。 それは、「赤字予算」という言葉が庶民にとって至って抽象的な概念で、日常生活に縁遠いものだからです。 ブッシュ政権は、目先の再選だけを考えているわけで、潤沢な資金を投じ、インテンスなプロパガンダを行なっています。 


国民の 70%が 9/11 はサダム・フセインの仕業だと思っているアメリカです。 莫大な財政赤字のツケが、いずれ自分たちの子供や孫にまわってくることには思いもよらず、アメリカの覇権と繁栄は永遠に続くものと思っているのでしょう。  (し)




03/09/20

日本の企業家スピリットが国際的にみてどん尻だという評価を聞いてショックでした。 日本の頼るべき資源は人的資源のみ。 国民全体が秀才というわけではありませんから、全員が、上級公務員か、財閥系の大企業に入って、高給サラリーマンになれるわけでもなし。 頭脳優秀学力劣等の奥手が実力をあらわすのは、自分で企業を起こすことではないでしょうか。 

私もカナダに移住してきた当初、日系の長老から、「オウン・ビジネスが一番ですよ。 食料雑貨店なら、家族の食べるものも卸値で買えるし、ハンバーガーに味の素でもふってごらんなさい。 人気がでますよ」 と言われたものです。 しかし、移民の私の場合は、夜学で工業学校に通い、印刷屋を試みたのですが、成功しませんでした。 そのうちCBCに雇われたので、易きについてサラリーマンに逆戻り。 背水の陣で頑張れば、また別な道が拓けたのかもしれません。 

それでも、CBCに雇われている間、モントリオールの夜学に通って、スモール・ビジネスをスタートするコースをとってみました。 ところが、クラスの 10人のうち、3人が放送局のプロデューサー。 うち2人はCBCのPD(私もその一人)。 プロデューサーなんて、最もつぶしの利かない職種ですから、次の手を考えておかなければと、それぞれコースをとったのでしょう。

ところで、1980年代の日本経済は無敵の不沈艦といった勢いでしたが、90年代になって形勢逆転。 海外のエコノミストたちは、日本の将来を憂慮していました。 

しかし、六本木ヒルズの繁昌振りをみると、今の東京っ子は、昭和元禄を上回るはしゃぎぶり。 森ビルの創始者、森泰吉郎元横浜市大教授は、和服に袴でオフィスに現れ、お昼は蕎麦を食べていると、こちらの新聞に紹介されていましたが、森先生は、六本木の繁栄をどうみているのでしょうか。

しかし、かつて日本の未来を懸念していたエコノミストは、今やアメリカの将来を懸念しています。

現今のアメリカの財政赤字は 5千億ドル。 使う金の三分の一を借金でまかなっているのですが、世界最強の軍隊も半分は中東の泥沼の中。 国内の工業生産は増えているというのに、280万の人が職を失い、失業率は6%台。 大統領が就任してから、その在任中に雇用が減ったのは、フーバー以来ブッシュが初めてだそうです。 

それでもブッシュの支持率が維持されているのはなぜか。 心理的に、国民はリーダーを信用したいという気持があり、一部のメディアもブッシュをグローリファイし続けているからだそうです。

しかも現政権は、金持だけが得する減税を実施し、社会保障やメディケアは 30〜40%減らそうとしています。 現在のワシントンの首脳部は、もともと社会保障とメディケア(高齢者向け医療保障)が嫌い。 しかし庶民にしてみれば、減税よりは、社会保障とメディケアの方が大事です。 また政府の支出は、GDPの 20% にに相当するそうですが、一方税収は 16%。 このギャップを縮めて、バランスをとろうとすれば、社会保障とメディケアをカットするのが早道というのがブッシュ政権の考えです。 

ところで、今のアメリカをみていると、フォークランドに侵攻した当時のアルゼンチンを思い出しすと、プリンストンのエコノミストは言います。  あの時、アルゼンチンの国民は、軍事政権の独裁専横を暫し忘れて、軍部の決断をたたえ、熱狂的に支持を叫ぶ「愛国者」となりました。 昭和16年12月8日、日本軍が英米オランダに対して火蓋を切った時も、日本国民は、緒戦の勝利に「万歳」を叫びました。 そして、日本は、断崖の崖っぷちに向かって盲進していったのでした。 

ブッシュをアルゼンチンの独裁者になぞらえるのは不当でしょうが、今のアメリカは断崖絶壁に向かって歩いているようなものだと言うのです。 ベビーブーマーたちはリタイアする。 国家財政は深刻な赤字。 政治的に増税は不可能な情勢。 さらに社会保障とメディケアをカットするのも事実上不可能な状況。 そうなるとボンドによる借り入れしか方法は残りませんが、信用は低下していますから、当然金利は高騰する。  ワシントンは金を借りることができなくなります。 そうなると、アメリカは第3世界、バナナ・レパブリックなみになってしまうと言うのです。   

クリントンは風上にもおけぬ男と思っていましたが、今になってみれば、経済を立て直し、財政を改善した分、今の大統領よりは、マシだったと見直されています。

アメリカの終焉まであと30年だろうとアメリカの知識人は予言しますが、「驕れる日本久しからず」と、後世の歴史に書かれないようにしたいものです。   
  (し)

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